2023/05/06

⚫︎おそらく、承認欲求を手軽に満たす方法は、人の嫌がることをすることだろう。人を喜ばせたり、感動させたりすることは難しいが、人の嫌がることをするのはそれほど難しくはない。自分の言動で、人が露骨に嫌な顔をしたり、怒ったりするということは、自分の行為が明らかに相手の感情に影響を与えたという手応えになり、それは「(ネガティブな)力の行使」の感覚となる。自分には相手に影響を与える力があるという手応えにより、自分が大きくなったと感じることができる。

(なんというか「拗らせる」と、こういう方向に行きがち。)

これが、閉じた関係性の中で個人に向かうとハラスメントのようなものになり、開かれた関係性のなかで社会に向かうと「公序良俗に対する侵犯」のような行為になる。あえて「政治的に正しくない」振る舞いや思想を声高にアピールしてみせることで良識ある人々の眉を顰めさせるというようなことだが、これは、ちょっとした嫌味で圧をかけるというようなことから、ヘイトスピーチ、通り魔的な犯罪まで、小さなことからより酷いことまで、さまざまなレベルで存在する。

ぼくの中にもあることで、自戒が必要だと思うのだが、「逆張り癖」みたいなものも、これとすごく近い感触の感情だろう。

(とはいえ、何かを考える時に、一度は常識の逆から考えてみることは、必要な、最低限のことだと思うが。)

⚫︎そこまで拗らせてなくて、よりストレートだが、ヤンキー的な「承認欲求の解消=自分を大きく見せる」やり方として「大きな音を出す」というのシンプルな方法がある。暴走族の爆音や、公的な場所(電車の中とか)で、身内の話をしている時に過剰に大きなリアクションをする(必要以上に広いスペースを占有するような仕草、手を叩く、靴を鳴らす、異様に大きな声で笑う…)など。大きな音の持つ威嚇作用で自らの存在を主張する。拗らせ度合いが低いとしても、どこか通底するものがあるように思う。

⚫︎で、難しいのは、この感じは、反体制的な「抵抗」と区別がつきにくいということだ。抵抗とは、(それ自身が目的ではなく、結果としてそうなるのだとしても)体制の側にいる人の嫌がることをすることだ。この時、「体制への抵抗」の中にもあり得る「拗らせた力の行使の感覚(ある意味、嫌がらせ的な感覚)」は、そこに明らかな権力差があること―-散々、力を行使されてきていること-―によって肯定されるべきものと考えていいのか。

仮に、肯定されるべきものだとして、どの程度の権力差までなら、それが容認されるのか。

(悪意と抵抗とが、「動機(感情)」の部分では区別がつきにくいというのは厄介なことだと思う。)

(皮肉やちょっとした露悪的言動をアイロニーとして楽しむという文化が衰退してしまったことも、悪意と抵抗との区別のつかなさを増進させてしまっているようにも思う。アイロニーの苦味のない知性はあり得ないと思うのだが、それが今では冷笑と受け取られかねない。冷笑とは、まさにアイロニーやユーモアの欠如のことだと思うのだが。)

(アイロニーは、「拗らせた(ネガティブな)力の行使の感覚」が発動してしまっている自己あるいは他者に対する批評=アラートとして知性によって立ち上がってくるものなのではないか。嫌味と皮肉の微妙な違い。皮肉の皮肉性を維持して嫌味へと堕落させないのが知性? )