フレデリック・ワイズマン『アメリカン・バレエ・シアター』

フレデリック・ワイズマンアメリカン・バレエ・シアター』をDVDで。ぼくという観客にとってこの映画は「豚に真珠」というやつで、ぼくはバレエについては何もしらない。ABTというのがバレエの世界でどのような位置づけにあるのか、この映画に出てくるダンサーがどれだけ凄い人たちなのか、その名前さえも、全く知らない。しかしこの映画は、(そのような観客のための映画だということではなく)そのようにして観るようにつくられていると言える。つまりこの映画は、ダンサーたちを「西部劇の馬」を観るような視線で観るようにつくられている。(ダンサーたちの身体や動きが、そのようにたちあがるようにつくられている。)この映画は、映画が「動く絵」と「音」から出来ているということに忠実である。ここではダンサーは「動く身体」であって、なんとかという名前をもったダンサーだったり、なんとかという名前をもった人だったりしない。ABTという組織を撮影してはいても、ABTという組織についての映画ではないように思う。西部劇の馬は、競馬の馬とは違って名前もなければ血統も知られず、ただ疾走し、立ち止まり、ブルルルルと震え、静かに餌を食べるというような、運動する塊(質量)であり、様々な運動、その緊張や弛緩の度合いの無数のバリエーションとしてあり、それがスクリーンを横切ってゆく。それと同じように、この映画のダンサーたちは、基礎的な練習をし、振り付けを練り上げ、あるいはソファーでリラックスし、自身の身体のケアをし、オフの日ははしゃぎざわめき、そしてそれらの身体の見せる運動の、一つの緊張の頂点としての本番の舞台を迎える。ここの観られるのは、創作の現場、その秘密、ダンスが完成(目的)に向けて徐々につくりあげられてゆく過程ではなくて、日々、少しずつ変化しながらも反復する運動のあり様であり、運動の様々な緊張の度合いであり、その濃淡のリズムであり、そのバリエーションであろう。(このようなバリエーションのなかで、固有名による固有性は消え、ただ身体と運動の特異性のみが浮上する。)つまりこの映画は、その映像をただ観て、その音をただ聞くことが出来るだけの映画だと言えるろう。この映画には、ABTという組織を存続させるための財政面などでのかなり生々しい話が出て来たり、この組織の一員となることを希望するダンサーと面接官のやり取りのようなものも示されているが、それでも、この現実のなかである組織を持続してゆくための「闘争」だとか、あるいはダンサーとして成り上がりたい者たちの内面の物語などは浮上しない。この映画には「人間」的なドラマなど一切なく、人間的内面の入り込む余地はなく、ただ身体とその運動と、その運動とともにある(運動によって導かれる)感情があるばかりなのだ。
ただ観て、ただ聞くことが出来るだけの映画の持続を支えているのは、勿論個々の場面でのそれそれのダンサーたちのみせる運動のすばらしさなのだが、それだけでなく、反復と変化、充実と弛緩のつくりだすリズムであり、時間の積み重ねであると思う。映画の終盤、ABTはツアーに出て、映画は「本番」の舞台を映し出すようになる。「本番」を目にする映画の観客は、それと同時に、今まで何度となくくり返されたきた日々の反復、リハーサル、振り付けの練り上げ、あるいは衣装合わせのシーンなどを、否応無く思い出して、それとの重ね合わせや対比によって、バレエ作品そのものである「本番」の舞台を観ることになる。くり返すが、これは創作秘話や舞台裏の提示ではなく、むしろ最も充実した運動の状態である「本番」そのものを、日々の運動の反復と重ね、そちらの方へと解きほぐしてしまうような効果をもつように思われる。例えば、年老いて身体の動かない、青いジャージ姿のおっさんのコレオグラファー(おそらくこの人も高名な凄い人なのだろう)が、「タララーン、タッ」と自分の口でメロディを唄いながら、動かない身体で不自由にダンサーに振り付けを示していた(その姿を見せられつづけた)そのダンスが、舞台の上で、オーケストラの演奏とダンサーの身体によって「本番」として示される時、映画をここまで観てきた観客であるぼくは、そのダンサーの動きのなかに、ジャージ姿のおっさんの身体や動きがまでもが畳み込まれ、その一部として含まれていることを強く感じることになるのだ。その時、映画は、ダンス作品そのもの、あるいはダンサーやダンスシアターの記録であることを越え、そこに、日々反復される緊張したり弛緩したりする運動の折り重なりを示す、映画によってしか示すことの出来ない(そのダンス作品そのものとは切り離された)、「運動」が実現され、表現されるのだ。
●この映画から感じられる、不思議に即物的で生々しい感触は、おそらく「自己言及的な匂い」を出来得る限り排除することで成り立っていると思う。単純に、この映画の撮影対象たちは、(ドキュメンタリーであるにも関わらず)決してカメラの方を見ないし、カメラの後ろにいる(はずの)人の方も見ない。加えて、この映画の多くのシーンが、壁の一面、時には二面が鏡張りの練習スタジオが舞台になっているにも関わらず、ほんの一瞬も、その鏡にカメラや撮影クルーが写り込むことがない。ダイナミックに移動するダンサーの動きを追いながらも、カメラ自身の姿が鏡に写らないためには、ダンサーの動きなども前もって予想した上で、相当周到なポジショニングをする必要があるだろう。その制約によって、もしかするとダンサーの重要な動きを撮り逃してしまうこともあるかもしれない。それでも、鏡にカメラが映らないことの方を優先させている。つまりこの映画は、あたかもカメラなど存在しないかのように撮られる劇映画のように撮影され、編集されている。カメラの存在をなるべく観客に意識させないようにするために、最大限の配慮が払われているのだ。時には、あたかも切り返しであるような繋ぎ方や、あるいは、ダンサーがふっと上を向いたショットに、ギリシャの夜空のショットがつなげられるという、「見た目のショット」であるかのような繋ぎ方までされている。つまりこの映画は、ドキュメンタリーでありながら、カメラ(や、撮影する人たちの存在)を消し去ろうとする劇映画的な(意図的、人工的な)撮影や編集によってつくられており、それによって逆説的にドキュメンタリー的な「生々しさ」が生まれているのだ。
●この映画を見ると、バレエというものがいかに面白いかがわかるのだが、バレエにのめり込みたいと思っても、それは「貧乏人」には閉ざされているのだった。