●意図的に長時間露光されたものでない限り、写真の画面全体をくまなく眺めるには、シャッタースピードよりも長い時間がかかる。つまり写真を見る時、短い時間で捉えられたイメージを、長い時間かけて見ることになる。そのような「見え方」をする世界は、人間の身体による関与の余地がないものとしてあらわれる。写真が、それを見る身体に与えるショックの多くは、このことからくるのではないか。それは、我々が居るこの世界と同じ世界でありながら、我々の住むところではない別の姿を浮き上がらせる。その点、映画は時間を含む分、我々の身体に親しい気もするが、その親しい身振りで人を誘導し、身体を拘束し、映画の自動的に進行する時間に従わせる。五秒持続するある人の顔のショットは、もっと見続けたいと思っても五秒しか見続けることが出来ず、正確に五秒で消えてしまう。ある人が、私の目の前からいなくなったとしても、死なない限りその人は存在しつづけるが、五秒のショットの「その先」は存在しない。(作中人物は生き続け、撮影された俳優は存在しつづけるにしても、そのショットを五秒以上見続けることは出来ない。)
●絵画は、人間の身体によって、人間の身体が世界と関わるやり方に沿ってつくられる。だからそれは、人間のような身体をもつ者にしか意味をもたない。宇宙にいるかもしれない高度な知的生命体や、未来にあらわれるかもしれない人工知能などにとって、絵画は、人間という特殊な存在(身体)のありようを理解するための資料以上の意味はないだろう。写真や映画が、多少でも、身体とは別の仕方で世界と関わる感触を人の身体に匂わせるようなことは、絵画には難しい。絵画はいつも、写真よりは(良くも悪くも)人に(それとも、たんに「私」に?)やさしい。(しかし、例えばスポーツ選手がその身体を酷使することで、まさにその身体のなかから通常の身体とは異質な動きを生み出すように、画家も、自らの身体を酷使することで、身体のなかから別のものを引き出し得るとは思う。というか、絵画の可能性はそこにしかないだろう。)
●画面のなかに二つの筆触がある時、必ずどちらかが先におかれ、どちらかがその後におかれたものだ。(つまり、最初の筆触に対して、次の筆触という風に、順番におかれる。)もし、一方がもう一方の下におかれているとすれば、下の筆触の方が先におかれたもので、それを、上の筆触がおかれた後で差し替えることはできない。(映画や小説のように、シーンや、ショット、語順などを、後から入れ替えたり出来ないし、一度やったことを削除することも出来ない。やり直す時は、新しいキャンバスを用意しなければならない。)これは、人間の手が、目の前の壁を越えて、その向こうのものに触れることが出来ず、触れるためには、壁を壊すか、向こう側にまわるしかない、というのと同じような、きわめて単純な世界の物理的法則であり、絵画はそのような法則のなかで、段取りを踏んでつくられるしかない。(そのような限界こそが絵画を根拠づけるかも知れない。CGのように、どのレイヤーもいくらでも取り替え可能であるならば、そこには無限のバリエーションがあるばかりだろう。有限の時間しか持たない人間の身体にとって意味があるのは、他であったかもしれないが、しかし、現にこのようになった、ということであろう。)
●しかし、人間のもつイメージや感覚は、必ずしも外部の物理的な状態と正確に対応しているわけではないだろう。例えば、我々が感じる色は、光の波長を正確に反映しているわけではなく、光の刺激をもとにして脳によって構成されたものとして浮上する。セザンヌは、色によって宇宙と脳髄が交感するというようなことを言ったが、色は感覚であって、網膜的、光学的なもの(だけ)ではない。視覚がたんに「視覚的」なものに閉じ込められないのは、視覚のみで機能しているのではなく、身体の一連の動作の流れのなかで位置づけられる一つの機能としてあるからだが、視覚が捉える感覚としての色も、その他の感覚(味や音や触感)と切り離されたものではない。(「味わい深い色」という言い方は、決して言葉の上だけの比喩ではない。)それらは常に、混線し、短絡し、響き合うことで、複雑な倍音を響かせ、独自の感触を、それぞれの感覚に生じさせるだろう。(おそらく写真は、写真が示す視覚像に対する「行為の不可能性」によって身体を凍り付かせるが、絵画は、描く時だけではなく、それを観る時も、何かしらの身体的行為(の可能性)のなかでそれを捉えることが必要であるのかもしれない。例えば、バットを振ることによってボールを捉えようとするバッターのように。しかし、絵を観ること(感覚を受け取る事)は「ヒットを打つ」のような目的を持たないので、おそらくその行為はなされる一歩手前で準備されるだけの、例えば「イメージのなかの素振り」のような「行為」なのかもしれない。)
記憶のなかの時間もまた、その順番通りに思い出されるわけではないし、どの時間をも同等な強さで想起されるわけでもない。それは、現在のなかで、その都度新たに編成され直してあらわれる。時間のなかで、一つ一つおかれていった筆触が同一平面に並べられている絵画において、人はその筆触を、おかれた順番通りに辿るわけではない。ある絵画がそのような状態であるためには、必然的に筆触のおかれるしかるべき順番があり、それ以外ではあり得ないのだが(それがそのように作られた固有の歴史が刻まれているのだが)、人がそれを「観る」時、その時間は、視線が辿る順番によって様々に、その都度異なる立ち現れ方をする。