●引用。メモ。樫村晴香「存在の犬/物象化論と弁証法唯物論」より
《具体的なりんごを再度前にしてみる。四肢論ではつねにすでに構造の網の目によって分節され、etwas Mehrとして、要するにりんごとして見える。私は、りんごの視覚は積算され続けるプロセスとして存在すると考える。そして、今入力された情報は、次々と再帰的に積みかさなっていくわけだが、そういった視覚情報がつみ重なるのと同じようにして、しかし同時に異なった権利をもって、最初の<りんご>ということばが、まず幼児において重なる。このとき、<りんご>ということばが構造の一項であるかどうかなど、赤ん坊にとってはどうでもよい。りんごでもうんこでもよいし、単なる強い刺激、性的興奮、屈辱、等でもにたような効果をもつ。最初のりんごという語は全く無根拠かつ唐突なものである。そしてこのとき、目に見えるりんごはシニフィエであり、ことばはシニフィアンとなる。その両者がこうしてうまくユニットを形成するなら、両者は全体としてひとつのシニフィエとして、無意識にファイルされる。
次に普通の成人主体がりんごについて語るとしよう。彼がりんごという時、彼固有のシニフィエがその無意識にいくつか存在し、シニフィアンに連結している。そして彼は、他者との話のなかで、この個有の組み合わせを再現しようとする。この反復強迫的な運動が、とりあえず主体である。彼は、お互いの意識的な話の連結のなかでしか、感じ、再現することができない。しかし彼は、彼特有のりんごについてのニュアンスを相手が無視するなら、<自分を否定された>と感じるだろう。》
《かぎりなくことばが貧しければと思う? そうすれば増大した沈黙の領域の不確かさのなか、そのことばが予感させるかぎりないひろさのなか、私そのものであることばと無数のものとのつながりが、くりかえされ、想起されるかもしれない?
だがこの貧しさへの試みは、根源的弁証法は、不確かさの不安に耐えられずにやがてつぎつぎとことばにたより、差異化と唯物論をおびきよせる。弁証法唯物論、または物質的対話性。あなたのことばは私の過去の証明であり、限りなく続く時間の恐怖から、私を救う。ただしほんの一瞬だけ。 》
●同じく、「所有する君を所有する、頭の後ろの自動人形について」より
《巧妙に調整された孤独のなかで、相手のなかにはあらかじめ先取りされた自分だけが存在し、そこでは触れ合うことのないふたつの夢が眼をつぶる。例えば現代の家族というものを見ればよい。だが、自動車はいつでも先取りされたあなたの夢であるとしても、人間や知能といったモノは、ある日あなたの夢のなかで、突然あなたの知らない言葉を叫びながら、拒絶し、罵倒し、殴りかかって来るかもしれない。何しろそれはあなたではないのだから。あなたはその言葉さえか、基本的感情も理解できず、それを他人として認知するには、一からすべてをやり直すべきである。ハイデッガーの夢のように、同じ風雪と物質を学んできたのではない他人たちに、互いに同じ種類のモノとして、ぎりぎりに共有された、苦痛が快楽へと転化する道徳という機械語を、最初の一歩から立ち上げつつ、その上に造形された感情の組成への互いの道を、学び合っていくしかない。
精神現象学』におけるように、同じモノを所有し合う人間と人間としてでなく、相互に掠め取られるモノとして面する人間たちは、自らのモノとしての性能を学習し待機する義務がある。同じモノを所有し合う人間は、他人として現実を共有し、モノとしての人間はそれぞれの夢を別にもち、だが、夢の中で、全くの異物があなたが用いた方程式とは別の仕方で自分を構成してみせるとき、この否定の暴力は逆に親近性を証明し、夢のなかの異物によってあらかじめ見られていたかもしれないという、羞恥と快感が、あなたの体を強く揺さぶる。自分の夢のなかで傷つき、死ぬかもしれないという恐怖が、その時、夢を現実に修復するのだ。そして一瞬のちにはテクノロジーがやってきて、それをまた夢に戻していく。》
●もう一度、反復する。《夢の中で、全くの異物があなたが用いた方程式とは別の仕方で自分を構成してみせるとき、この否定の暴力は逆に親近性を証明し、夢のなかの異物によってあらかじめ見られていたかもしれないという、羞恥と快感が、あなたの体を強く揺さぶる。》