フィレンツェなどで、消化不良をおこしてしまう程に様々な多量のルネサンス前後の表象物(絵画や彫刻や建築)に次から次へと触れていると、嫌でも「神」とか「信仰」とかについて考えざるをえなくなる。きわめて狭い地域に、これでもかという程に教会があり、それぞれがまたとんでもなくごっつい建物で、しかもその内部は、凄いものから凡庸なものまで、雑多な表象物で埋め尽くされている。こんだけのものをつくるのに、一体どれだけの労力と財力とがつぎ込まれていることか。建築は常に権力(や権威の誇示)に関わるものであるから、ここではこれらのの表象物は、信仰そのものと言うよりも、人々の信仰を支配し方向付けようとする意思と結びついているのだろうが、そこまで考えると話が大きくなりすぎるので、それはここではとりあえず置いておく。ただ、視覚的な表象(美術)が、そもそも神や信仰と切り離すことが出来ないものだということは、嫌と言う程みせつけられる。
極端なことを言えば、あらゆる表象物がなんとかして「神」という概念を表象しようとしている、と言える。それらを次々と浴びて感じたのは、「神」とはつまり、私や私の生(人間や人間の生)よりも大きいもので、しかし「自然」とは異なるもの、ということになるのではないだろうか。神や真理は、人間を超えた大きさで人間を律するが、それは決して自然そのものではない。だから、神をもっとも良く表象するのは、「言語」であり「幾何学」であり「法」である、ということなのだろう。それは、「言語」によって神を説明出来るということではなく、言語そのものが、「自然と対立するものでありながら個々の人間を超える秩序を有する」という意味で、神の存在のアナロジーとなる、ということだろう。まあ、ぼくは、あまりに当たり前のことを言っているだけなのだろうけど、無数に林立する教会の建築は、そのような(本来「非感覚的なものである)「考え」を、感覚を通して実感させ、捉えさせる力をもっていた。絵画や彫刻が、例えば人間のような具体的なものの表象を通じて「神」のような概念を感覚化する(見ることのできるものにする)しかないのに比べて、建築は、スケール感や空間の比例関係などの構成によってそのような概念を表現することができるのだから、ルネサンス期において、あくまでも建築こそがメジャーなメディアで、絵画や彫刻はその下位に属するジャンルであったということも理解できる。建築は、具体的なスケール、空間の比例的構造によって、直接的(と言うより感覚的アナロジーとして)人間よりも大きい秩序(=神)を感じさせることの出来るが、絵画や彫刻は、例えば「神=父」というような意味的なアナロジーを介して、父のような人物を描くことによって「神」という概念を出現させなければならない。しかし、ただ「父のような像」によって「神」の意味を代行させるだけであるのなら、その表象物はたんなる説明の道具でしかなく、それ自身として「概念」を感覚化するところまでいかない。(概念を感覚化できなければ、それは信仰の対象となることは出来ないだろう。)
宗教的な絵画や彫刻において、人体像は決して人間の身体を表象するものではなくて、人間の身体のコンストラクションを利用して、それとは別のある「概念」、人間よりも大きい秩序や法のようなものをこそ現そうとしている。フィレンツェ滞在中に、ミケランジェロのものだけではなく、数多くのダビデ像をみたのだけど、それらは、旧約聖書ダビデという登場人物を利用して「人体」をつくろうとするというよりも、人体の基本的なコンストラクションを用いて、ダビデという「概念」を感覚可能なものにする、ということのようにぼくには感じられた。ルネサンスの絵画や彫刻は、確かにそれ以前のものよりもはるかに「人間的」な感じがするのだが(つまりそれは相当に近代的な「(風)俗」に近づいたものなのだが)、それでも、そこで主に問題にされているのは具体的な人間の存在であるよりも、それらを貫き、律している大きな秩序であるように思われた。だからそれは、人体をモデルとしながらも、けっして人間の等身大へと着地するものではなく、もっと大きな何かに向かっている。(人体をモデルにしながらも、人体を表象したものではない。)そのような意味では、ダイナミックな動きを強調するミケランジェロによる人体彫刻と、それとは全く表現方法が異なる、例えば日本の仏像などとが、全く別のものとは言えないと思う。共に、人体という基本的なコンストラクションをふまえた上で、それを利用し、そのなかで、それを超える「何か」を出現させようとしている。
しかし、一方に、あくまでも人間よりも大きなもの(神や秩序)を「感覚化」しようとする表象物があるとして、そのもう一方で、その「大きなもの」と「人間的な感情」とを結びつけるということも、視覚的な表象物の役割りとしてあるのだろう。(教会という建築物=器のなかは、様々なレヴェルの表象物で埋め尽くされているのだ。)それは、人を聖なるもの(大きなもの)へと向かわせる俗なるもの(人間サイズのもの)だと言える。確か、コルトナ(http://www008.upp.so-net.ne.jp/wildlife/hikari1128.html)にある司教区美術館(ここには、サンマルコのフレスコ壁画とは別バージョンの、板絵の、フラ・アンジェリコ『受胎告知』がある)でみたのだったと思うけど、地下に、テラコッタでつくられたピエタの彫刻(というより人形)があった。これは、美術作品としては決して質の高いものではないけど、キリスト教が、どのようにして人の感情を信仰へと結びつけていたのかということの一端をみせられたように感じた。迫害され、傷つけられ、死んで横たわるキリスト(男性)のまわりで、それを支え、悲嘆にくれる(確か)五人の様々な年齢の女性たちの像。この図像は、それを見る者に対して(それが男性であっても女性であっても)、その感情のもっとも弱い(幼児的で、無意識に近い)部分に強く作用するものであるように思われた。そのテラコッタによる造形が、素朴であるだけにより一層そうであるだろう。ここには、たんに大きなもの、崇高なものだけを示すのではなく、同時に、人の感情のもっとも弱い部分に働きかけて、強く情動を震わせようとする、キリスト教的なイメージ戦略の巧みさが示されている。ここでは、「神(人間を超えたもの)」という概念を「父」や「母」のような(人間的な)ものとして表象するしかないような視覚的表象の弱点とも言えるものによって、逆に、人々(の感情)と信仰とが強く結びつけられ、その感情を信仰へと傾倒する動機付けとするような情動へと組織することへ利用されていると言えるだろう。