●メモ。『考える脳考えるコンピューター』(ジェフ・ホーキンス)、4章、5章。
脳のニューロンの反応はきわめて遅く、一秒に二百回程度の処理しかできない(コンピューターは一秒に十億回の演算ができる)。では何故、並列コンピューターを使って行う何兆というステップでも出来ない難問を脳が解くことができのか。それは、脳が「計算する」システムではなく「記憶する」システムであり、答えを「記憶」から引き出してくるからだという。《ニューロンはそれを蓄えるのであって、計算するのではない》。
●新皮質による記憶の、ハードディスクやメモリーチップとの違いは、次の四つだとする。
(1)新皮質はパターンのシーケンスを記憶する。
(2)新皮質はパターンを自己連想的に呼び出す。
(3)新皮質はパターンを普遍の表現で記憶する。
(4)新皮質はパターンを階層的に記憶する。
4章、5章で(1)から(3)までが説明される。(4)については次の6章で語られる。
●(1)について。人は一度に一つの出来事しか話せない。それは言語が継起的な構造をもつからというだけでなく、《物語が頭のなかにシーケンスとして記憶されていて、それと同じ順番でしか呼び出せない》からだという。自宅の間取りや物の配置を完全に憶えているとしても、《それを思い出すためには、実際に歩きまわるのとほとんど同じように、順番に場所をたどっていかなければならない》。記憶同士は関連しているが《すべてを一斉に思い出すことはできない》。新皮質は信じられないほど大きな記憶容量をもつが、《記憶の呼び出しにある時点で実際に関与するニューロンシナプスは、脳の中の少数》であり、《一度にはわずかな数しか思い出せないし、順に連想することでしか呼びさませない》。《シーケンスのかたちをしていない複雑な出来事や概念は、人間には理解すらできない》。《本当にランダムな思考は存在しない》。
●(2)について。《自己連想的な記憶システムでは、入力したパターンと同じパターンが出力される。ただし、与えられる入力が一部だけだったり、ひずんでいたりしている場合でも、記憶から完全なパターンを引き出すことができる。そのパターンは空間的でも時間的でもかまわない》。目には身体の一部しか見えなかったとしても、脳が残りの部分を補う。《全身が見えていないことすら気づいていないかもしれない》。騒々しい場所で会話して言葉がすべて聞き取れなくても《脳は聞こえなかった部分を、聞きたかったように補う。極端な場合には、耳に入っていたはずの言葉でさえ、勝手に置き換えてしまう》。
《何かの思索にふけっていても、友人の顔が思い浮かんだ瞬間、関心がそちらに向く。思考が切り替わるのは、それを選んだからではない。だれかのことがふと頭によぎっただけで、関連するパターンがつぎつぎに思い出されてゆく。》《思考と記憶は連想によってつながっていて、すでに述べたように、ランダムな思考はけっして現実には起こらない。脳は自己連想によって現在の入力を補い、自己連想によってつぎに何が起こるかを予測する》。
●(3)について。脳による記憶は、《覚えるときも、思い出すときも、完全な精密さには欠ける》。それは《脳が現実世界の重要な関係だけを、細部にかかずらうことなく記憶するからだ》。人工の記憶でも、たくさんの画素で描かれた顔を記憶することができるが、《画素を左に五ずつずらした顔が与えられると、まったく認識できない》。だが人は、《ずれていることすら気づかないかもしれない》。だからこそ、友人の顔を、どのような距離、角度、光の状態でも認識できる。感覚の刺激が絶えず変化しても、普遍的に「その顔」がわかることを「普遍の表現」と呼ぶ。それは記憶の抽象化といえる。
これは、メロディーがどのキーで演奏されても認識できる能力からもうかがえる。《重要なのは音の高さの相対的な差、つまり音程だ》。《音に「高さの隔たり」があるように、顔の特徴にも「位置の隔たり」がある》。《記憶される形式は、関係の本質をとらえたものであり、ある瞬間の詳細ではない》。
だが、抽象的な規則性だけでは、具体的な予測のよりどころとはならない。《脳が具体的な予測をたてるためには、普遍的な規則の知識を最新の事実と組み合わせる必要がある》。よく知っている曲を聞く時、新皮質は次の音を予測する。しかし、次の音程は記憶されていても、そこから実際の音は予測できない。次の音の高さの予測には、《普遍的な音程と具体的な最後の音を組み合わせる必要がある》。だがその時、意識されるのは感覚化された音であり《あらかじめ頭に響くのはミであって「長三度」ではない》。
●以上をふまえた上で、「理解する」とはどのようなことなのか、が問われる。例えば、自分の部屋に見慣れないコーヒーカップがあったり、ドアノブが変えられたりしていることに、何故気づくことが出来るのか。それは、《人間の脳は蓄積した記憶を使って、見たり、聞いたり、触れたりするものすべてを、絶えず予測している》からだとする。部屋を眺めている時、《脳はいつも記憶を使い、何を見るはずであるかの予測を、実際に見る前にたてている》。そして《新皮質に記憶されていないなんらかのパターンが目に入ったとき、予測くつがえされ》、その変化に「気づく」。《異様な感触も、ゆがんだ鼻も、ふつうでない動きも、同じようにたやすく検知する》。
帰宅した時に自宅のドアに何かしらの改造がなされていたとしたら、どこが変わったか一瞬でわかる。その変化が、あり得る《一〇〇〇種類のいずれであっても、きわめて短い時間のうちに気づく》。《脳は低レベルの感覚についての予測をたて、あらゆる瞬間に何を見て、聞いて、触っているはずかを前もって期待しているのだ。しかも、それらは並列におこなわれる。新皮質のどの領域も、つぎに何を体験するのかを予測している》。《ここでいう「予測」とは、ドアについての感覚にかかわるニューロンが、入力を実際に受けとる前に興奮することを意味する。そして、現実の入力が到達したとき、予測された興奮と比較される》。《すべてが予測どおりであれば、それが意識にのぼることはな》い。予測が外れると《困惑》し、《注意が喚起される》。《新皮質は予測のために存在する生体組織といってかまわない》。だが、つねに正確な予測ができるとは限らず、《どちらかといえば、脳はこれから起こる出来事について確率的な予測をたててい》て、《予測はいくつかの可能性にまたがっている》。
●新皮質は数千万年前にあらわれ、哺乳類だけがもつ。その大きさは二〇〇万年前にめざましく拡張した。《新皮質は既存の行動を効率的に使えるようにしたのであって、まったく新しい行動を生み出したわけではない》。《新皮質自体は割合と新しい組織であり、進化によってじゅうぶんに洗練されるほど長くは存在していない》。新皮質は、感覚入力を記憶し、記憶と実際の入力を比較して現状を認識し、将来の感覚入力を予測するが、同じ状況で旧脳がとった「行動」も記憶する。ここで《感覚と行動の差を考える必要はない。なぜなら、新皮質にとっては、どちらも単なるパターンだからだ》。
●新皮質は中心溝と呼ばれる裂け目によって前後に分かれ、後ろ半分は、視覚、聴覚、触覚といった感覚の入力を受け取る部分がある。前半分は、高レベルの立案や思索を行う領域と「運動野」がある。人間においては前半分が不釣り合いなほど拡張されている。《人間がきわめて複雑な行動をとれるのは、運動野が独自に全身の筋肉と多くのつながりを持っているからだ。(…)ほとんどの動物が起こす行動は、旧脳の働きに大きく依存している。それに対して、人間の新皮質は、運動を御する機能のほとんどをほかの組織から奪ってしまった》。
●新皮質は二つの方向に進化した。一つは、大きくなり、より多くの事象を憶え、より複雑な関係にもとづく予想が可能になった。もうひとつは、旧脳の運動システムと作用しあうようになり、行動のほとんどを支配するようになった。新皮質は、《単に旧脳が起こした行動にもとづいて予測をたてているのではない。予測を実現する運動そのものを起こしているのだ》。
●ここまでは、きわめて説得力があるように感じられる。それとともに、脳神経科学と精神分析の接近のような感触が得られる(まだまだ遠いけど、まったく相容れないという感じではない気がする)。ところどころに、まるでフロイトを読んでいるような感触がある。