●『ゼンデギ』(グレッグ・イーガン)では、マーティンのコピーの問題よりずっと「ファリバ」の方が(思弁的には)重要であるように思われた。マーティンのコピーの問題に関しては、人格のコピーが技術的にまだ足りない状態である以上、人間は「今ある常識(国家、宗教、文化、友情)」のなかで生き、死ぬしかないということが語られている。しかし「ファリバ」は、そのような常識では処理しきれないものが、既に生まれてしまっていることを表している。
ファリバとは、二十人の若い女性の脳をスキャンしたデータから構成された、一つの疑似人格のようなものだ。
●ファリバを生み出したナシムは、元々アメリカで、どれ一つとして同じものはない千羽の錦花鳥の脳の接続パターンを(ニューロンのレベルで)解析し、そこから、そのどれとも異なる「一般的な錦花鳥の脳」をシミュレーションする、という研究をしていた。錦花鳥は、個体ごとにそれぞれ異なる固有の歌を歌う。だから、合成された一般的な錦花鳥の脳は、その元になった千羽のどの錦花鳥の歌とも異なっていて、しかもまぎれもなく錦花鳥の歌だと言えるような歌を生成するものでなくてはならない。だから、「一般的な」とは言っても、実は、千羽の錦花鳥から、千一羽目の「仮想の新たな個体の脳」がつくりだされたとも言える。
(新たな個体を人工的につくってしまう。考えてみればこれは、既に存在する個体をコピーするよりも、一歩踏み込んだ行為だと言える。)
ファリバは、二十人のそれぞれ異なる女性の脳のスキャンデータから合成された、「一般的な若い女性の脳」のシミュレーションということになる。これは「ゼンデギ」という仮想現実のゲーム内でエキストラ的な役を演じるプロキシの対応に、機械的ではない、ちょっとした人間らしい色合いを加える目的でつくられる。あるいは、それを元にすることで、より深く作り込まれた人工人物を造形することが容易になる、原型のような役割をもつ。
《〈ファリバ〉は、スタンドアロン・システムとしては、なにをすることも意図されていない。従来のソフトウェアでも、人物の過去や目標、記憶、文脈をあたえることはできるが、〈ファリバ〉は、会話がスクリプトで予想されている可能性の範囲を超えても気づまりな沈黙に陥らないような柔軟性のあるキャラクターを、デベロッパーが千倍は楽に作れるようにするだろう。》
《「ここにあるどの色が、温かな天気を思わせる?」
「この中からひとつだけしか無人島に持っていけないとしたら、どれを選ぶ?」
「最初の三枚の写真のうちのどれが、四枚目が結末になる物語を語っている?」
テストには必ずしも、ひとつだけの正しい答えがあるわけではないが、〈ファリバ〉はつねに気の利いた反応をしてみせた。彼女は叙述的記憶も、高尚な信念も、なにも持っていない――しかし、彼女が獲得したすべての言葉と概念は、完全にすじの通るかたちで結びあわされている。もし内面の深さをなにも持っていないなら、〈ファリバ〉はおめでたい人よりも、自分自身の窮状にまだ気づいていない記憶喪失患者のように聞こえるだろう。》
ファリバは長期記憶を持たず、自分自身という感覚をもたず、テストの度にリセットされる、「人間らしい感じ(効果)」を生み出すだけの装置にすぎないとも言える。それはただ、永遠の現在のなかを、単純な課題を何度も繰り返し、何も思い出すことなく、自分の存在を知ることもなく、無数のコピーとなって拡散しつつ、何度も何度も作動する。
だが、《彼女を作るのを手伝った女性たちが、数秒間、ひとつの単語のことを考えるとか、同じ絵を探すとかいう単純な課題に完全に没頭してわれを忘れているときでも意識があるのと、同じ程度には》意識がある、とはいえないのか。
自分自身の存在を意識しない意識。われを忘れて何かに没頭している時にも意識があるという時と同様の意識しかない意識。記憶=過去を奪われ、いま、ここでの作動としてだけある意識。過去と自意識をもたない意識は意識と言えないかもしれないが、意識ではないとも言い切れない。
●ファリバは後に、ゲームシステムのハッキングに対するフィルタリングの役割も負わされることになる。ヴァーチャルなサッカーゲームにおいて、ハッカーは、システムに対しては通常のプレイヤーとして認識させ、しかし参加している人間に対しては羊として認識させるようなモノを侵入させるというやりかたでゲームに介入し、仮想の競技場を羊で溢れさせる。この時、人間のように上手く「間違い探し」のできるファリバが、多量にコピーされ、フィルターのセンサーとして使われる。ファリバは「羊」を見分けられ、フィルタリングは成功する。
フィルターとしてファリバを使う決断をするナシムに対しで部下は、《こんな奴隷を何千人も生み出すことを考えると》《不穏な気持ちになりませんか》と問う。
意識がないとは言えないファリバが、仮想的にさえ人の形をもつこともなく、数千ものフィルタリングの為のモニターとして、一言も発することなく黙って奴隷のように働かされることが許されるのか、と。そしてファリバは、次のハッキングの時に、フィルタリングを拒否する(嫌なものを見ない)ことによって、その「意志」を示すことになる。嫌なものを見ることを拒否する存在に、意識がないと言えるのか。
●過去と自意識を欠き、いわば反射神経だけで高度に「気の利いた」会話を成立させることの出来るファリバは当然、嫌なものに対しては嫌だという反応をする。記憶を持たないファリバは、どんなに嫌なことをされてもそれがトラウマとなることはなく、ただ流れ去って消える。しかしその、きれいさっぱりとこの世から消えてしまった「嫌」を、はじめからなかったものと言えるのか。イーガンは《自分自身の窮状にまだ気づいていない記憶喪失患者》という表現をしているが、永遠に窮状に気付かない記憶喪失者にとって、自身が窮状に陥っているという事実はないことになるのか。
(というか、「嫌だという反応」を「嫌だと言う感情」として「読む」のはわれわれ人であり、それは人の幻想であり、そこに関連があるとは言えない――しかし「ない」とも言い切れない、という、この手の問題に必ずでてくる根本的な問題もあるのだが。)
●意識の萌芽、自意識のない意識、常に記憶がリセットされつづける、大人の判断力をもつ永遠の新生児。