●理解する、というのはメタ的に把握する(あるいは記述する)ということとは違うというのは重要なことだ。例えば作品をみるということは、作品をつくるということと同じくらい実践的なことで、技術や能力を必要とする。しかし、こういう言い方だとちょっと上から目線ぽい。
例えば、作品が理解されるということは、実践としての作品が、まったく別の実践と共鳴するということだ、という言い方はどうだろうか。ある一枚の絵を観た人が、その人が切実に行っている別の実践(子育てでも農作業でも社内の人事でも)に何かしらの刺激を受けた時、その二つの実践の間で「作品の意味」が生まれる。それは作品から「読み取られる」ということである必要はない。ある本を読んでいる時、その内容とはまったく関係のない別のアイデアが浮かぶというのも、同じことだと思う(こういう本は参照文献には書きこめないけど)。「いい気分転換になった」というレベルも決してバカにはできない。意識は人間のほんの一部にすぎない。
でもこれだと、変に「生産性」を強調しているみたいな感じになる。別に生産性などなくてもいい。例えば、小説を読んでいて体がムズムズ、モヤモヤするというのも共鳴だろう。いや、これこそもっとも重要だろう。小説という実践と身体という実践(身体をもって生きているということはそれ自体実践だ)が共鳴していることになる。無駄にムズムズして海に向かって走ってしまう、みたいなこと。いや、走ると言う行為に至らず、ムズムズという感覚に至らず、であってもいい。
だがこれは、「私が私なりに勝手に感じ取ればいい」ということではない。ここにあるのは二つの実践の共鳴であって、「私」ではない。「私」はない。あるいは「私の勝手」にはまったくならない。だから、作品に対する最低限のリテラシーは必要だ。文を字義通りに理解でき、そこから文脈を推測できるという程度には。あるいは作品を受け入れる余白が私の側にあること。
拍を打つということだけではリズムにならない。作品は、みずからリズムになろうとする拍を打つ行為で、それは別の実践と共鳴した時、はじめてリズムとなる。動きが生じ、作品の意味が生じる。だから共鳴した実践の数だけ複数の意味がある。しかしその意味は、メタ的には把握できない。意味は意識ではない。
作品は複数の実践を誘発して複数のリズムとなろうとする。そもそも作品自体が別の(複数の)実践からの共鳴としてうまれる。
●というようなことを、これを聴きながら考えた。《「こえ こえ」(佐藤雄一)をななひらさんに読んでもらいました。》
http://www.nicovideo.jp/watch/sm17234658