●東京造形大学で、レクチャー。(テーマは「作品を、(観者)として外側から考えることと、(作家として)内側から考えること。(そのズレと重なり)」)人前で話をするということに全く自信がないので、ここ一週間くらいは、何をするにも頭も隅にこのことがあって、気にかかっていたのだけど、なんとか無事に終了してホッとした。ぼく自身、学生の頃そうだったのだが、絵画科の学生は、講義などに出るよりも自分の作品をつくることの方がずっと大切で、講義なんていうかったるいものに、自分の作品を制作する貴重な時間を取られてしまうことを嫌うものなので(ぼくも大学時代はずっとアトリエにいて、講義系の単位は語学など「出席」を重視する必修科目以外は、ほぼレポート提出だけで取得していた)、だからこのレクチャーも、多くて二十人くらい、下手をすると十人以下の学生しか集まらないということもあり得るだろうと想定していたのだが(ちなみに、造形大学の絵画科は、一学年五、六十人程度)、割合と大きな教室が、一杯にはならなくても、適度に席が埋まっているという感じの人数で、話す方としては一番やりやすい感じだった。
とにかく、時間が埋まらなかったらどうしようという不安が事前にはあったのだが、質疑応答の時間も含めると、三限と四限の時間をほぼ使い切って、三時間くらいは一人で喋っていたことになる。(そのうち、二十分くらいは、短編の映画を映写したりしたのだが。)それでも、事前に用意したネタ(内容)で話せなかったことがいくつもあって、後半、自分の作品について話すところではかなり駆け足になってしまったし(ほとんどの学生がぼくの作品を知らないので、ただ「見せる」だけでも、もっと多くの作品を見てもらった方がよかったかも知れない)、前半、人の作品を分析的に話すところでも、マイケル・フリードの「芸術と客体性」について、とか、マティスのフォーブ時代の作品の面白さ(そこに含まれた可能性の大きさ)について(これは、現在のぼくの作品ともかなり関係する)、とか、セザンヌの「形をその中心から捉えてゆく」タッチについて、とか、マネとリキテンシュタインと岡崎乾二郎の作品の共通点について、とか、マティスの色彩とボナールの色彩との違い、とか、マティスの「赤いアトリエ」と、ロスコ、ニューマンの作品の関係について(つまり、抽象表現主義は、マティスから何を受け継ぎ、何を受け継ぎ損なったか、について)など、話したかったけど、話の流れに上手くハマらないかったり、もしくは、その話をすると長くなり過ぎそうだと判断したことから話さなかったことも、結構あった。
絵画科全体を対象としたレクチャーで、学部の一年生から大学院の学生までいて、学部の一、二年生にはちょっと難しすぎて、ポカーンとなってしまうような内容だったかもしれないくて、どこまで受け止められたのかは分からないけど、まあ、「役にも立たないわけのわからないことを本気で考えているおっちゃんがこの世界には存在するらしい」ということだけでも受けとめてもらえればそれで充分だろうと思う。まあ、「難しい話」が嫌いな、友人で造形大の講師でもある画家の今澤正が、一応最後まで寝ないで聞いていたので、そんなには退屈な話ではなかったのだろうと、勝手に自己評価したのだった。