国分寺スイッチポイントで、木村彩子・硨島伸彦展。
http://www.switch-point.com/2011/1112tenth6.html
硨島伸彦の立体作品は、最初に観た時は正直あまりよく分からなかったのだが、何回か観ているうちに、やはりこの形態はすごいものなんじゃないかと思うようになってきた。
硨島伸彦の平面作品には、複雑な状態を、現れ方としては、出来る限りシンプルにすっとたちあげたいという感じがあると思うのだが、基本的には立体でもそれはかわらないのだと思った。アイコンのようにイメージの精度を切り詰めることなく(複雑さの度合いを切り詰めることなく)、しかし見え方としてはシンプルに、一挙に、ダイレクトに、たちあがる感じ。
しかし、平面は二次元で、現実的な三次元を二次元へと変換してゆく(あきらかに無理のある、無理が意識化されやすい)過程に必然的に抽象化の操作が(自然に、というか不可避に)入り込んでくるから、その、次元の圧縮の力がそのまま、イメージを研ぎ澄ましてそれを押し出してゆく力ともなると思うのだが、立体の場合は、実際にも三次元である兎を、三次元である兎-作品(イメージを生みだすもの)へと変換する(三次元としてある兎のイメージを、別の、三次元としてある兎-作品へと変換する)時、それは同じ次元上での変換行為となるので、その変換過程(操作の手つき)は平面よりも見えづらくなる。あからさまなデフォルメや形態の抽象化という分かり易い操作が行われていない分なおさら。
ここでの三次元から三次元への変換は、形態-イメージのアイコン化(キャラ化)でもないし、機械的に三次元スキャンして異なる素材で再現する(分かり易い異化)というのでもなく、伝統的な彫刻としてのよい形が探られているわけでもないようなのだ。平面作品のスパッとたちあがる感じとも違って、形がころっと(ごろっと、ではない)ある感じ。これは何なんだろうなあと思いながら観ていた。
複雑な状態を切り詰めることなく、しかし、現れとしてはそれがシンプルにすっと立ち上がるというのは、モダニズム-フォーマリズム的だと言えるのだが、しかし、ここではモダニズム-フォーマリズムが捨ててしまった「イメージ」への強いこだわりがあり(イメージが作品とその外の何かを繋ぐ臍の緒のようなものとなっている?)、しかしそのイメージのあり様(その質)は、ポップなイメージとは違っている。