●話題になっている、pixivで公開されている『のび子ちゃん』(ごま)を読んだ。いろんな意味でよくできている作品だと思った。しずかちゃんが失恋する場面で、背景の「土管のある空地」がマンション建設予定地になっているところとか泣ける。
http://www.pixiv.net/member_illust.php?mode=manga&illust_id=32945540
ただ、ラストでのび子ちゃんが出来杉くんを赦す(そして癒す?)ところに違和感を覚える人がいるのは分かる。確かに分かるけど、ぼくはあれでよいのだと思う。
あの場面でのび子ちゃんは、のび子ちゃんにとってドラえもんに当たる役割を、出来杉くんに対してとっている。のび子ちゃんは、悪意としての恋愛−性的な攻撃を友情へと変換して返しているのだから、出来杉くんの「母親」になっているわけではないと思う。のび子ちゃんにとっての成長とは、出来杉くんによる「暴力」を受け入れ、赦すところにあるのではなく(この作品では、男性からの暴力を甘んじて受け、赦すという「女性像」が称揚されているのではない)、「ドラえもん−のび子ちゃん」関係を、「のび子ちゃん−出来杉くん」関係へと変換することが出来るようになったという点にこそあると思う。
そしてそのことは、のび太くんからのび子ちゃんへの変換とも関係がある。のび太くんからのび子ちゃへの移行があり、その移行はそれを受け入れてくれる周囲の友人たちと、彼らと過ごす時間の過程があったからこそ可能だったという過程がのび子ちゃんにはあるから、のび子ちゃんは、自分にとっての「ドラえもん(に代表されるけど、それ以外の友人たちの存在も大きいだろう)」が出来杉くんには存在しないのだということに気付くことが出来、「ドラえもん−のび子ちゃん」関係を、「のび子ちゃん−出来杉くん」関係へと変換(転換)し、自らドラえもんの役割を、出来杉くんに対して演じることが出来るようになる。そしてそのことは、出来杉くんを救うだけでなく、なによりも、のび子ちゃん自身を自由にする(出来杉くんに対する感情に拘束されなくなる)。
(この作品で、のび太くんからのび子ちゃんへのジェンダーの移行は、「本当は」男でありたいのか女でありたいのかということ――本人の主体的な欲望――は問題になっていないことがけっこう重要だと思う。だからこれは、男の子みたいな女の子が、年齢とともに――自らの欲望を自覚するより前に――周囲が自分を女性という目で見るようになっていることを意識せざるを得なくなるという過程を、リアリズムで描いているのとほぼ同じだと言える。ここで、のび太くんからのび子ちゃんへの移行は、当初、本人にとっては重大な決心でしたわけでも強いられて嫌々にしたというわけでもなく――ドラえもんの不在という大きな出来事が背後にあるとはいえ――「なんということもなく」行われ、のび子ちゃんが熱心に勉強をはじめるというキャラの変化も、「自然」に起こったことで、この移行−変化を深刻に、というか大きなショック(切断)として受けとめるのは周囲の人物たちの方だ。しずかちゃんやスネ夫ジャイアンの受けたショックを――彼らがそれを柔軟に受け止めてくれたがゆえに――のび子ちゃんは自覚していない。だからこの時点ではのび子ちゃんは、アニメなどでよくある「無自覚な(天然)ヒロイン」とかわらない。のび子ちゃんは、出来杉くんの仕打ちによって、周囲に与えたショックのフィードバック――まあ、勝手な逆恨みなのだけど――を受け、周囲の目の変化をはじめて意識し、それによって自らの立場――自身の欲望を含めた――の不可逆的な変化をようやく自覚した――せざるを得なくなった、とも言える。ここで自分の欲望が向こうから――出来杉くんの方から――やってきたという感触が、それ自体は悪意であったとしても、あなた−わたし関係の転換を可能にする下地にもなっていると思う。この展開は、けっこうウテナ−暁生の関係に近い感じがある。)
確かに、出来杉くんの行為を簡単に(きれいに流すように)不問に付すべきではないという考えは、主体や責任という問題系においては正しいだろう。そして、それを受け入れ、赦す、「より大きな存在」というイメージの安易な称揚が、許されない行為の発生をあいまいに許してしまう土壌の温存に繋がるという主張があるとすれば、それも正しいだろう。そういうところに(つまり出来杉くんに)甘いのは、お前がヘテロの男性だからだろうと言われれば、それを否定できないかもしれない。
しかし、この作品で問題となっているのは、固定された「このわたし」を超えるような関係性そのものの描出であり、あるいは「関係の変換」という(「わたし」を超える)主体的能動性なのだと思う。誰にとっても「わたし」は「わたし」でしかないというわたしへの固着を超出する契機であり、それは「わたし」と「あなた」との位置の入れ替え可能性ということに依っている。
(だから、この場面では明らかに行動に問題のある出来杉くんもまた、別の場面では自らのび子ちゃんの位置につき、別の出来杉くんを赦し、救うかもしれない。)
それは、ある固有の関係のなかに含まれている「わたし」が、その関係(諸関係の関係)のなかで(その諸関係を地としつつ)、それを「あなた」と「わたし」関係の多様な重ね合わせとしてとらえ直すことで、あるわたし−あなた関係を別の関係へと変換してゆくということで(のび子ちゃんの部屋の押入れのなかで、ドラえもんが消えた後に、入れ替わるように子供の出来杉くんがあらわれる時、あなた−わたしから、わたし−あなたへの、のび子ちゃんの位置の移行が起こり、関係の変換が起こる)、メタな視点から関係を操作すること(これは、どちらかといえば出来杉くんがやろうとしたことで、これはむしろ「このわたし」への強い固着性によってあらわれることだ)とはまったく異なる。
「わたし」と「あなた」という二人称的な場での相互交換可能性は、19日の日記に書いたヴィヴェイロス・デ・カストロのパースペクティヴィズムとも深く関係すると思う。『のび子ちゃん』は、関係のなかで起こる「わたし」の位置の変化の不可避性と、関係における「わたし」と「あなた」の位置の変換可能性についての作品だと思った。