●お知らせ。VECTIONによる「苦痛トークン」についてのエッセイの第三回めをアップしました。苦痛トークンというアイデアの元にある思想「PS3(Pain, Scalability, Sustainability, Security)」には、他者への共感と関心が含まれているという話です。。
苦痛のトレーサビリティで組織を改善する 3: 他者への共感・関心を内包するPS3
https://spotlight.soy/detail?article_id=khrvgx76t
Empathy and Concern for Others in the PS3 / Implementing Pain Tracing Blockchain into Organizations (3)
https://vection.medium.com/empathy-and-concern-for-others-in-the-ps3-c52ac91bd934
●あるニュースなり記事なりを読むとする。一読して得られる、感想なり、感情なり、その出来事に対する自分の立ち位置なりが浮かぶ。そしてそれが、自分のこころに少なくない波を立てるものだとしたら、その出来事についてもう少し詳しく追っていこうとする。そうして調べていくと、ほとんどの場合で、最初に自分が感じたこと(感情や態度)がまったく適当ではなかったと思うか、そうでなくても、その感情や思考はあまりに一方的過ぎて、大きな修正が必要だと思うようになってくる。たいていのものごとはすごく複雑で、第一印象(直観)の多くは間違っている(見えてくるものの解像度が上がるほど、簡単に否定も肯定もできないと分かってくる)。こういうことを繰り返し経験すると、なにごとに対しても(いろいろ考えた末に自分なりの結論が出ていると思えることにかんしても)態度を「強く」表明することを躊躇するようになる。そして、(思想的な傾向性とは関係なく)ものごとをきっぱりと断定する人を胡散臭く感じるようになる。その強い言い切りにいったいどの程度の根拠があるというのか、と。
(たとえば、ぼくが何かに反対したり賛成したりする判断は、たんにぼくが持ち得る「情報の偏り」によって生じているのではないかという疑いが常にある。)
そうではあっても、生きている限り、何かを選択したり決断しないわけにはいかない(つまり、何かを排除したり、何かに反対したりしないわけにはいかない)。「許し難い」と感じることがないわけはない。だから、おずおずと何かを提案し、おずおずと何かを批判するのだが、でもそれは結局、それほど大したことのない自分の頭で考えた(というか、選択した)ことに過ぎず、考慮すべき点が抜け落ちていたり、論理的な誤謬があったり、さまざまなバイアスがかかっていたりするのだろうという疑いがありまくっているものでしかない。あらゆることは暫定的な解でしかないのだから、できるだけさまざまな考えを検討し、都度都度、状況(現実)と照らし合わせて、大きくズレがでてはいないか確認しながら、おそるおそる考えを進めるしかない。明らかに間違っていると思われるようなことに対しても、自分は決してそっちには行かないとか、友達がそっちに行こうとしていたら全力で止める、という形での否定しかできない。