⚫︎竹内まりやの「September」はわりと好きなのだが、竹内まりやが作った曲ではないということを今更知った。林哲司・松本隆の曲。林哲司は、シティ・ポップ再評価の中心曲の一つである「真夜中のドア」を作った人でもある。原田知世の「天国に一番近い島」もぼくは好きだ。
ぼくには音楽的な分析はできないから、詞についてちょっとみてみる。この曲は出だしがとてもかっこよくて、《からし色のシャツ追いながら/飛び乗った電車のドア》と、いきなり「からし色のシャツ」というカラフルなイメージが出てきて、ついで、それを追って「電車に飛び乗る」というキビキビしたアクションがつづく。しかし、このカラフルでとび跳ねるようにポップに始まるこの詞が描いているシチュエーションは、「心変わりした恋人が別の女性に会いに行くところをこっそり尾行している」という、重たくて、陰気で、じっとりとした場面なのだった。《いけないと知りながら/振り向けばかくれた》、《年上の人に逢う約束と知ってて》。え、ここからそこに行くの! という驚きの展開だ。
しかしこの詞は、嫉妬や未練を軽く匂わせながらも(《会ってその人に頼みたい/彼のこと返してねと》)、そのような重く湿った感情は匂わせるにとどめて、全体の調子としては、恋人の心変わりを嘆いて「悲しむ」という感情の方に重きが置かれているように感じる。《ほどけかけてる愛の結び目/涙が木の葉になる》など。恋人や、その相手への恨みごとのような感情は希薄になっている(いや、でも「行動」としてはねっとりと尾行しているのだが…)。そしてこの曲は最後には、確かに悲しいことだが、これはこれでもう終わったことだ、と、スパッと割り切る感じにまで行き着く。《トリコロールの海辺の服も/二度と着ることはない》。
何が言いたいかというと、同様にネガティブな感情であっても、「未練」や「嫉妬」という感情はポップにならないが、「悲しみ」はポップになるということを、(「未練」や「嫉妬」という感情の存在を匂わせつつも抑圧することで)この曲の「ねじれ」が端的に示しているということだ(「未練」や「嫉妬」は関係に粘りつくが「悲しさ」は自律した感情だ)。日本のポピュラー音楽の歴史に詳しいわけではないが、おそらくこの、「ポップでカラフルな悲しさ(自律した悲しさ)」という感覚が(同時に、ポップにならない「未練」や「嫉妬」という粘りつく感情の意識的排除が)、当時はニューミュージックと言われた(ものの一部である)、70年代後半に始まるシティ・ポップが日本のポピュラー音楽に持ち込んだ(従来の歌謡曲や演歌と異なる)新しさだったのではないか、と思う。そしてこの感覚・感傷は、高度消費社会ととても相性が良い。
(おそらくこの感覚・感傷には、音楽的な根拠もあるはずだろう。)
(竹内まりやが自分で作る曲は、林哲司・松本隆よりも、もうちょい重めで、もうちょい湿っている感じがする。)
⚫︎だがもちろん、「未練」や「嫉妬」という感情を、日本のポピュラー音楽が切り捨てたということはない。演歌が流行らなくなったとしても、たとえば中島みゆきのような人が、シティ・ポップと同時代に出てくるのだし、むしろ(おそらくいつの時代も)メジャーなのは中島みゆき的なものの方(要するに「保守的なセンチメントの力」)であって、シティ・ポップ的な感覚ではないだろう。