●政治という語が嫌なのは、一方であまりに多義的であり、しかしもう一方で、その時、その語の意味するものの範囲が正確に測られないまま使われがちなので、意味としてノイズが大きすぎて、正確な伝達が困難なまま、ただただ人の感情だけを惹起しがちなところだ。
(人が「政治的」と言う時、一体その語で何を言おうとしているのか、何を指し示しているのか、ぼくにはいつもよく分からなくて混乱してしまう。)
(たとえば、「ロックに政治をもちこむな」という主張に対して、その「政治」という語が意味する範囲によっては、「たしかにそうだよな」とも思えるし、「いや、その主張には無理がある」とも思える。)
(ここにはおそらく、「政治」という語の使い方の政治的曖昧さ、というのもあるのだろう。その文が正確に何を言おうとしているのかということよりも、その文がどのような機能するのか---炎上を起こす、とか、党派性の徴となる、とか---が優先される時、たとえば「政治」というような、多義的で人の感情を「釣り」やすい語が、意味としては、意図的に曖昧さを残したまま使われる。)
(そういう文に対しては、反応した時点で「釣られ」ている。意味が明快ではない発言からは、ディスカッションではなく、殴り合いが生まれる。殴り合いはコミュニケーションであり、そのレベルではコミュニケーションを惹起したという意味がある。だけど、議論というのがコミュニケーションではなく、自分では気づけない間違いや弱点、ヒントや視点を互いに指摘し補完し合うことで、よりよい解を探り、導くという目的のための過程だとすれば、コミュニケーションはノイズだ。)
(とはいえ議論には、これだけ真剣に議論し合ったのだから、まあ、この部分は譲歩してもいいか、というような、話すこと---話している時間や感触---を通じての納得の成立という次元があり、これはコミュニケーションの領域と言える。)
(議論が、真理や最適解へと至るための手段だとすれば、本当は決して譲歩してはいけないわけで、それは間違った議論のあり方なのだけど。議論が退廃してコミュニケーション化し、コミュニケーションの手段として機能する、ということは---科学や数学といった分野でない限り---現実的にはありふれた姿だろう。)
(ポスト真実という語が流行っているが、そもそも人間において、「常識(世界観)」「納得の:形成」「共同的に定められる白黒の境界」などのコミュニケーションの領域は、「論理的必然性」「計算結果」「事実」などの事実の探求の領域と必ずしも一致しないどころか、一致することが目指されてさえいない場合が多い。例えば「作法」は無意識のうちに作動するコミュニケーションのふるい---コード---であり、よそ者と身内とを見分けるため装置であるが、具体的な作法のありよう自体は理不尽で根拠がなく、しかし根拠がないからこそ作法による選別が有効に機能する。)
(そうか。「政治」という語の示す意味のひとつに、コミュニケーションのレベルと議論---論理や事実の探求---のレベルが、人間においては、常に不純に入り混じってしまって不可分だということがあるのか。コミュニケーションの側にも事実の側にも純化できない、相互が干渉する「濁り」の部分を政治と呼ぶとすれば、猿山の集団サルから進化した人間の生物学的に必然な場所として「政治」があるという納得も得られる。)
(ならは、人工知能---汎用計算機---によって政治が越えられる、ということもあり得るのか。)
●政治でも運動でもなく、社会的な課題に対してあり得る一つのアプローチ、みたいな言い方をするとどうなるか。そう言い換えると、それは要するにデザイン(アルゴリズム)ということなのだな、という気づきを得る。
(複数のイデオロギーの抗争ではなく、原理---理念や組成---の異なる複数のデザインたちによる、特定の環境における進化論的な抗争。その抗争は、議論というより、環境のなかにおける実験---あるいは、仮想環境におけるシミュレーション---とその結果の検証をつうじてなされる、とか。言論よりも、実験とシミュレーションとを優先することで、コミュニケーションというノイズをかなりカットできるのではないか、とか。)