清水高志さんがツイッタ―で「道具」についてすごく面白いことを書いていたので、メモとしてここに引用させていただく。
《結局、何が「作られて」しまうのかというと、道具が作られる。考えないといけないのはこのような制作についてだ。ある用途や目的を持って道具がつくられる、しかしそれが実際には多能性をもつ。。そういう風にして目的が超えられる。》
《この問題を考えるところに起成因的な観点のツボがあり、今シモンドンにこだわってるフランスの人たちや、エリー・デューリングのプロトタイプなどもこのあたりに関心が行っている。サブライムが目的性を超えるのではなく、道具が実は超えたということが事後的にわかる。》
《しかしまたこうした事態は、その道具が複数の目的性を結びつける、相互牽制的な媒体でもあることを意味する。。すなわち、交換のテーマと、目的のテーマに関わっている。。汎用的な交換、すべての目的のために媒体的、交換的に働く道具、という主題とも関わる。》
《拡大された交換、信用の問題やサブライム的なものの要請、といったある意味危険な傾向がここからでてくる。貨幣や超越的シニフィアンの問題が。。》
《モノ、オブジェクトのもっとも深い要素に、そうした側面があるということ。。そしてそれに人間がいかに関わり、人間化(オミニザシオン)を遂げるのかということ、さらには、そこで神の問題はどうなるのかということ。。
それが孕む危険を回避するために、「道具」の多能性をいかに深い次元で読み解くか。。これがうまくできれば、多自然論的な解決が実現する。。しかもこの「道具」とは、思考するための「道具」、計算するための「道具」といった概念的なものでありうる。》
《ヴィヴェイロスは、「器官なき身体」について何て書いていたんだっけ。。今手元に資料がないが。。しかし「器官」も道具なんじゃないかな。》
《マルブランシュが主張している機会原因論は、単自然論的な相対主義のいちばんはっきりした十七世紀版だと思う。》
《最終的に、「道具」はそれに関与し、それを使う人間によって作られ、つねに作り直される。》
《機会原因論相対主義である理由は、デカルトによる目的因の否定を採用したからである。マルブランシュはこの否定を神の卓越や人間精神の無力と結びつけ、またそれがアウグスティヌス主義との親近性をもたらす。》
ライプニッツはこの意味での目的因の否定を、こう言ってよければ、より道具的に行っている。道具にまつわる起成因の問題や多能性の問題として。もっともこの道具とは極めて広義のそれで、思考のための道具、計算のための道具、計量や計測のための(!)道具としてのモノである。》
《準ー客体論を、もっとも普遍的でシンプルなかたちで考察していくと、それは道具論になる。》