●15日の日記に書いた講義が明日あるので、今日は、「AURA」と「中二病でも恋がしたい」を観直して、中二病的な「世界の重ね描き」の物語について考えていた。
ここで言う中二病的な物語とは、(1)世界の設定は、我々が普通に現実と呼んでいるこの世界と基本的に同じである。(2)しかし、その主人公は、例えば「自分は異世界からやってきた魔女だ」と信じているかのように行動する。魔女のような長いローブを着て、魔法使いの杖のようなものをもって学校へ行き、友達との会話のやり取りでも「異世界の魔女である」という体で受け答えする。いわば、デーモン小暮が「この顔こそが素顔なのだ」とか「年齢は十万四十三歳だ」とか言っているようなことを、日常空間でずっとやっているということだ。ここで、彼女が本当にそう信じて行動しているとしたら、たんに病気であるが、そうではなく、いわば、「この世界全体」を「別の世界」として見立てて(設定して)、彼女はその「見立てられた世界」のなかに住んでいる。つまり彼女は、「この世界のなか」にいながらも「この世界が現実であること」を拒否している。彼女は意識的に「演じて」いるのだが、その「演じられた自分」こそが真の自分であると感じている。あるいは、「演じられた自分」のなかにしか、「自分」の居場所はないと感じている。
ぼくはこれを、ヤンキー化された世界のなかでオタクがどのように生き延びるのか、という話だと思う。中二病物語の主人公たちが拒否している「現実」とは、狭く閉ざされ、固定された人間関係(地元の人間関係優先主義のようなもの)であり、そのような関係の他に「別の関係」があり得るという想像力を遮断するような場の力(あるいは、場の貧しさ)だ。彼女がもし、特に頭がよかったり社交性に優れていたりすれば、「異世界の魔女」になどならなくても、別の魅力的な関係性を(現実のなかに)独力で開くこともできるだろう。しかし彼女が、(十分な文化的資源があるわけではない)地方に住む、まだ高校生で、しかも気弱で引っ込み思案なコミュ障だとして、そして「地元の人間関係こそがリアルである」いうヤンキー的な価値観になじめなかったとしたら、別の関係を望むときに、「異世界」くらいしか選択肢がなくなってしまうのではないか。
一方で、場の力が「これが現実だ、受け入れろ」と強いる「現実」が貧しい紋切り型(思い込み)でしかないということが事実だとして、しかしもう一方で、彼女たちが見立てる「異世界」もまた、同じくらい貧しく紋切り型なものでしかない(文化資本の不足)。だから、「異世界」が彼女たちを救うことは決してなく、異世界へののめり込みは袋小路でしかないのだけど、しかしそれでも、彼女たちは「異世界」設定なしには生きてゆくことができない。あまりに貧しい「現実」を拒否するために立てられた「異世界」は、それ自身の貧しさによってほころび、「現実」に足元をすくわれ、しかしそれでも「現実」には耐えられないので「異世界」へとひっくり返り、しかしまたすぐひっくり返される。「この世界」という一つの場に無理やり押し込まれた相容れない「現実(いまここにある人間関係)」と「異世界」という二つの解釈は、どちらも同じくらい貧しいので、どちらにも安定せずに抗争が果てしなくつづく。これはとても過酷な状況であり、だから「中二病もの」を思春期特有の自意識過剰問題とみるのは間違いだと思う。
「AURA」で、自分のことを「竜端子(何か貴重なものであるらしい謎の物)を集めるために異世界から派遣されたリサーチャーだ」と設定する痛い主人公は、クラスのリア充女子から執拗にいじめられる。スクールカーストの最上位にいるリア充女子ならば、変なオタク女など敵ではないはずで、無視して裏で嘲笑っていればいいのに、なぜわざわざ執拗に攻撃するのか。それは彼女が、主人公の行為が「自分を最上位に置く世界の秩序」そのものの否定であることを知っているからだろう。そして「現実」とされるその秩序もまた「異世界」と同じくらい空疎なもので、自分自身の足下の危うさに彼女が気付いているから、主人公を無視して放置しておくことが出来ないのではないか。
(「AURA」の主人公は、最後に異世界への帰還=自殺を企て、この世界は「狭量」過ぎるからもうここにはいられないと言う。だがここで、「狭量」なのは、「現実」だけでなく「異世界」もまた「狭量」なのではないか。もし、「異世界」が狭量なものでなければ、あるいは、「狭量ではない異世界」を想像できるのならば、彼女は「異世界」を否定しなくても「この世界」に留まれるのではないか。だがこの作品にはそこへ向かう探求はない。)
中二病でも恋がしたい」は「AURA」と同様に、「見立てられた世界」の住人の話で、つまり「現実」と「異世界」の相容れなさで振幅する世界ではあるが、「AURA」の(ほとんど破滅に向かうしかない)貧しい二分法に比べ、相容れない二つの間にもっと豊かな遊戯空間を開こうとしている。
(「中二病でも…」においては、主人公に「現実」を強いるシビアな関係とは家族関係であり、学校には彼女をいじめるリア充女のような存在はない。学校で彼女の「異世界設定」が否定されるのは、それが「恥ずかしい」からであり、その「恥ずかしさ」を感じているのも結局は彼女の同類であるので、そこにある抗争は遊戯的抗争であり、シビアなものではない。)
一方で、(家族関係のなかでは)「現実」と「異世界」の相容れなさによる緊張や葛藤というリアリティを保持しつつも、もう一方(学校)での「現実」と「異世界」の抗争は遊戯的で鷹揚である。現役中二病(デコモリ)、継続中二病(リッカ)、親中二病的脱中二病(トガシ)、反中二病的脱中二病(ニブタニ)、天然ボケ(ツユリ)、一般人(イッシキ)、というように、登場人物ごとに「痛さの濃度」を変えてグラデーションをつくり、異なる濃度たちによる考えられる限りの様々なフォーメーションがコメディとして展開されている。
重要なのは、学校での遊戯的抗争を媒介とすることで、家族とのシビアな抗争に硬直からの軟化が生じ、変質のための隙間が生まれることだろう。これは、(「現実」が狭量であったとしても)「狭量ではない異世界」への試みなのではないか。遊戯的抗争が、彼女の「異世界」を次第に寛容なものへと変化させる。これは、文化的な資源が貧しい(とりあえず緊急避難的に「異世界」は必須である)なかでも、その貧しい元手によって可能な最大限の豊かさ(異世界そのものの変質や更新)をつくりだすための試みとは言えないだろうか。
中二病でも…」は「AURA」のパクリだと言われることがあるし(アニメ版「AURA」は2013年だが原作のラノベは2008年のなで「中二病…」より先)、設定だけみれば確かにパクリと言われても仕方がないようにみえる。しかし、あまりにも貧しくて救いのない「AURA」に対し(その過酷な貧しさは一定のリアリティをもつものではあるのだが)、その世界を受け継ぎつつも、それをなんとか少しでも豊かなものにし、救いのあるものへと作り替えてゆこうとしているように思う。そのような意味で、作品としては「中二病…」が優れているように思われる。
●今日の日記は『バック・トゥ・ザ・フューチャー』について書いた日とわりとつながりがある。
http://d.hatena.ne.jp/furuyatoshihiro/20140723