2022/10/09

●昨日の続きでもあるが、お笑いに限らず、「コンテストでは勝てない種類の良い作品」というのが確実にあって、そういうところにこそ貴重な作品や面白い人がいる(重要な可能性がある)のになあと思う。文芸誌の新人賞などでも、コンテストにはなじまないような作品、いいところまではいくが受賞には至らない(分かりやすく「強い」作品に競り負けてしまう)というところにこそ、面白い作品や作家の可能性があるのに、こういうところがなんとかならないかなあと思う。

(誰もが認めざるを得ない、有無を言わせぬ強い作品じゃないとダメ、というのは、「作品」というものに対する考え方として根本的に間違っているのではないかと思う。)

例えば、テストの成績は点数によってはっきり順位づけできる。100メートル走も、タイムによって順位づけできる。コントAは面白いが、コントBはつまらないという「質的な評価」をすることもできる。しかし、コントAは一位で、コントBは六位で、その間には45点の開きがある、ということに意味があるのか。あるいは、コントCもコントDもどちらも面白いが、ほんの3点差でコントDが上回る、という言葉に意味などあるのだろうか。ここには、はっきり点数づけできるものについての「評価の形式(量)」を、はっきりとは順位づけできないもの(質)に対して強引に(乱暴に)採用してしまっているという誤謬があるのではないか。というか、これは明らかに「分かりやすく(=売りやすく)」するための意図的な誤謬だろう。

(はっきりと順位づけできるものには、「質」を「量」へと変換するための明確なルールと評価基準があるが、「面白い/面白くない」ということが問題になる場合は、その基底にあるルールや評価基準そのものに対する疑義や再検討という要素がそこに含まれることになる。)

(質、例えば「頭の良さ」は、それ自体を点数づけしたり順位づけしたりはできない。しかし、テストの成績なら、量としてそれをすることが可能だ。そして、テストの成績は、頭の良さをある程度は反映していると期待できる。しかし、頭の良い人のテストとは無関係な場でなされる言動から受ける「質感」は、テストの成績の頭の良さへの反映が、あくまで限定的なものであることを表現・実証するだろう。)

(質の量への変換が悪いと言っているのではない。変換には厳密なルールが必要であり、その効用と限界についての明確な意識が必要である、ということ。そしてさらに、変換ルールの吟味と再検討は常に必要だということ。)

だからつまり(というか、いきなり飛躍するが)、アンチコンテスト、アンチ点数づけ、アンチベストテン(アンチ順位づけ)、アンチ「審査員の選評」、アンチ権威づけ、として「批評」があるということだろうと思う(面白さは「質」的なものであると同時に、その「質感」によって、「質の量への変換ルール」の再検討をうながすもので、批評は、「面白さ」のそのような側面を意識的に吟味する)。

●これはまた別の話かもしれないが(というか、最初の二つの段落と三つ目以降の段落とでは話が論理的につながっていないのだが、これ以降の話は、最初の二つの段落から続く話となる)、地下アイドルという存在が面白いのは、そのハードルの低さ、経済規模の小ささによって、「コンテストでは勝てない種類の良い作品」が存在し得る土壌となっているからだと思う。「圧倒的にすごい」でなくても「微妙だけど面白い」が成立する。ただ、マイナーな多様性が持続可能であることは、この世界では簡単なことではない。カンブリア紀に爆発的に発生した種の多様性は持続可能性なものではなく、ほとんどの種が絶滅した。