●お笑いをコンテスト形式にして盛り上げるというやり方が嫌なのでいつもは観ないのだが(そもそもテレビは全く観ないのだが)、岡野陽一が出るというので「キングオブコント」をTVerで観た。「最高の人間(岡野陽一+吉住)」のネタはとても良かった。「巨匠」時代のコントよりもさらに濃くなっているというか、吉住の「演技力(キャラ造形力)」と岡野陽一の「毒」という互いの強みが掛け合わされていて、まさに、普段に一人でやっている人たちのコラボとして意味のあるものになっていると思った。
コンテスト形式で必須だと思われる「終盤の畳みかけるような展開」をあえて外している、意図的に「切断」を入れてくる、というとこまで含めて、(図らずも、なのだろうが)ネタそのものが「キングオブコント」という形式の批判になってさえいると思った。
吉住は、演技・表現の豊かさ、細やかさは素晴らしいのだが、やや世界が狭いというか、毒や狂気のスケールが小さいといつも感じていて、日常的な世界からあまり飛翔しない感じがやや不満だったが、そこに岡野陽一の闇の深さが加わることで世界観としての闇のスケールが大きくなって、そのような世界の中で表現の細やかさが一層際立つことになったと思うし、岡野陽一は、作家としての才能は素晴らしいが、演者としてはそんなにはうまくないし、表現の幅も広くない(それが良いところでもあるのだが、基本、岡野陽一は常に岡野陽一でしかない)と思うのだが、そこに、吉住の表現力が加わることで、その世界に一層深みが増したと思う。「逃げて」のような、スッと表情を変えてみせることで世界を一挙に反転させるみたいなことは、岡野陽一一人ではできなかっただろう思う。
確かに、岡野陽一が緊張しすぎていて、パフォーマンスとしてはイマイチだった感じはあるが(明らかにセリフを間違えていた)、ネタとしてはすごく良かった。10組中、ベスト3に入らなかったので観られなかった、もう一本のネタも是非観たいと思う。
優勝した「ビスケットブラザーズ」のネタは、コンテスト形式に最適化されていたというだけでなく、なんというのか、理屈抜きで腹から笑えるというタイプのもので、そしてそれは、二本とも確かに有無を言わせぬ強力なものだと思った(二本とも素晴らしく面白くて、結果には納得できる)。それに比べて、例えば「め団」の一本めネタには「毒」が盛られていて(め団のネタの「戯曲」としての完成度はすごい)、そして「最高の人間」のネタには「毒」にさらに加えて「批評的なねじれ(「世界」への批判的な眼差し)」が乗っけられている(よくある政治風刺のようなものではなく、もっと根本的なものとしての「批判」)。だから、ただゲラゲラ笑ってスッキリというわけにはいかない(「笑う側」にも刃が向けられてさえいる)。その、どちらの方向性を評価するのかというのは、評価される側の問題(コントとしての良し悪しの問題)ではなく、「評価する側の姿勢」の問題で、つまり評価する時に何を重んじてするのかということによって違ってくる。そしておそらく、地上波のテレビで放送される「お笑い」ということでみれば、「ビスケットブラザーズ」の評価が高く、「最高の人間」の評価が(ちょっと不当ではないかと思うくらいに)低いという選択は、適当なものなのだろうとは思った。
(「テレビ」「お笑い」と言う既存のカテゴリーが、評価の方向を決める。)
(あと、松本人志が岡野陽一に対して点が辛めなのは、自分と似たものを感じてしまうから、と言うこともあると思う。「ビスケットブラザーズ」は、自分とは全く異質なものだから、手放しに面白がれるし、高得点をつけられるのではないか。)
(テーマパークとカルトを同一視しつつ、そこにサロンビジネス的、ブラック企業な自己啓発のヤバさの匂いも乗っけてくる「最高の人間」のネタは、いじっちゃいけないものをいじってしまっていて、危険な時事ネタとも言えるようなものであるのと同時に、普遍的なヤバさを持ってもいて、「テレビ」としてはそこをあまり鋭く突っ込まれたくはないだろう。)
(ぼくは、「最高の人間」は「ビスケットブラザーズ」に勝たなくてもいいと思う。というか「勝つ」という発想が違うのではないか。例えば、「売れる」とか「収入」とかのレベルでは「勝とう」とすることに意味があるかもしれないが、ネタの面白さは勝ち負けの競争ではないと思う。岡野陽一の素晴らしさは、このようなコンテストでは「勝たない」というところにあるのではないか。まあ、「最高の人間」と言うユニットが、「キングオブコント」というコンテストのために作られたというのは逆説的なことだが…。)
●あとこれは、ぼくなどが言うことではないと思うのだが、しかしスルーするわけにもいかない問題として、審査員が全員男性で、演者も一人を除いて男性ばかり(女性は吉住だけ)なのに対して、観客の全てが若い女性(しかもお揃いのTシャツ・マスクを「着せられている」ので「仕込み」だろう)というのは、これは常識的に考えてもありえないと思う。単に「意識が低い」のではなく、むしろ逆に「意識的」に、あるいは「思想的」に、わざわざそうしているとしか思えない。
(お笑いにとって「現場の空気」がとても大切なものなのだとしたら、なおのこと、「仕込み」ではなく、募集し抽選して普通に客を入れるべきではないのか。)