07/11/03

中央大学で、保坂和志さんと対談。昨日の寝る前くらいから、なんでこんなに、と自分でも不可解なくらい緊張していた。あまり眠れなかった。中央大学へと向かう途中、乗り換え駅でトイレにいった時、パンツを後ろ前に履いていることに気づく。今朝、どんだけ緊張してたんだよ、と可笑しくなって、それで少し緊張がほぐれた。多摩都市モノレールのなかでは、外の景色を観る程度の余裕はできた。
人前で喋る時って、事前に用意したことしか喋れないものだなあ、と思った。例えばこの日記に書いていることは、書きながら考えたというか、書くことによって思いついたこと、書くことで考えが導かれたことがけっこう多いのだけど、喋ることによって考えが引っ張られるとか、喋ることで喋る前には考えてなかったところまで考えがのびてゆく、ということはなかった。これは慣れの問題なのだろうか。
講演終了後、主催したサークルの人から色紙を書いてくれと頼まれて、そんなことしたことがないから、何を書いていいか分らなくて困った。保坂さんが猫の絵を描いていたので、ぼくはドラえもん(猫型ロボット)の絵を描いた。
講演を聞きに来ていた柴崎友香さんとはじめてお会いして話した。初対面の人と最初に話したのが幽霊と心霊写真の話って....。
●講演会での保坂さんの発言でぼくが重要だと思ったのは、人が言っていることはいちいち「真に受ける」べきだということ。例えば荒川修作が「死なない」と言えば、それは本気で「死なない」ということを考えているのだ、という前提でその発言を読み、その作品に触れるべきだということ。それは、アラカワ教に入信することでも、アラカワを教祖として奉るのでもなく、アラカワの頭のなかを自分の頭によってトレースして、アラカワが「死なない」といっている時のその身体的な状態を自身の身体によって再現-体験してみることで(完全には無理でも、そこに近付こうとすることで)はじめて、アラカワの言う「死なない」の意味が理解できる、というようなことだと思う。つまりここでは、言葉の意味は、その時の身体の状態ということになる。
(例えば、凄いピッチャーでも、シーズンオフの気を抜いた時にはシーズン中のようなボールは投げられない。同様に、アラカワにしても、生活しているすべての時間で「死なない」ことを信じられる状態にあるわけではないと思う。しかし、ある瞬間には本気で「死なない」ということを信じることが出来ている。「死なない」というのは、その時の脳や身体の状態全体を意味している。だとしたら、それを信じることが出来ている時のアラカワの身体の状態を、自身の身体として一時でも再現するということが、アラカワの作品を理解するということになる。そのような理解は外側からの解説では不可能で、その人の言う言葉を字義通りにいちいち本気で「真に受ける」必要がある。それによってはじめて、言葉が隠喩という機能を超える。)