●『ミシェル・セール』(清水高志)の第二章にある「人間プレート」というイメージがとても面白い。「私たち」の存在論的変質と「自然」。以下、引用、メモ。
≪現代の科学文明を享受している「私たち」にとって、自然が見失われていることは確かだとしても、今日の「人類」の全体像を可視化することも、また困難なのだ。人類=リヴァイアサンに替わるものとして、セールはこんなイメージを私たちに示している。


もはや、惑星−地球のうえで作用しているのは、個人や主体としての人間、つまり古めかしい哲学上の闘う英雄でもなければ、かびの生えた歴史意識でもない。世にもまれな、砂に埋もれた一組の主人と奴隷のおきまりの対決でもない。昔の社会科学が分析したような、議会や党派や国家、軍隊やあらゆる小さな村落といったものでもない。むしろ大量で、巨大で、高密度な、人間プレートなのだ。(「戦争、平和」)


「砂に埋もれた一組の主人と奴隷のおきまりの対決」という表現は、ヘーゲルが『精神現象学』で描き出した「主人と奴隷の弁証法」という関係を踏まえたものである。≫
≪たとえばグローバルな経済社会が、競争とそのための単一なルールを普遍的なものとして世界中のあらゆる集団、あらゆる社会に適用させるのだとすると、ヘーゲルの述べた「主人と奴隷の弁証法」は現実のものとなるだろう。同じ椅子取りゲームをしなければ勝ち残れない、という「想像」が、現実に影響力を振るうのだ。しかし人類全体としての「私たち」の像は、実際にここまで互いを意識し合う求心性を持つにいたっておらず、無自覚的、間接的な結びつきとしての側面が強い。情報技術や複雑怪奇な輸送機構によって、世界中が結ばれているとしても、この無自覚さ、間接性はむしろ増大しているほどなのである。≫
≪「人間プレート」は、どこがどことつながっているかわからない、ネットワーク的な巨大な統合体である。かつて人類は、なんらかの集団に属する以前に、まず大地に根を下ろして暮らしていた。しかし今日の「私たち」は、むしろこの「切れ切れの連続体」にしか関わっていない。それは物流と情報の巨大なネットワーク状の輸送機構であり、多様体である。≫
≪いみじくもハイデガーは人間を現−存在(そこにある存在)と呼んだが、今日の人類は「いたるところにある存在」である、とセールは言う。技術的=人工的生態系を成す、現代の輸送機構においては、お互いがどのように影響を与えあっているのか充分にはわからないし、最初からその連関が構造化されるための中心が――ハイデガーにおける現−存在のように――あるわけでもない。≫
≪(セールからの引用)私たちは世界の空間を侵略したばかりでなく、あえて言うなら、存在論を侵略したのだ。思考やコミュニケーションにおいて随一であり、有機体のなかでもっとも情報を持ち、諸物の総体のうちでもっとも活発に動くもの。「いたるところにある存在」は空間の中を拡散していくにとどまらず、存在の諸領域に拡散してゆくのだ。(「戦争、平和」)≫
≪こうした「人間プレート」としての「私たち」の像を見るかぎり、人類はこれまでになく自然への影響力を強めているが、そこにおける「私」の位置はもはや充分には確定されず、不明である。「私」のふるまいがどんな経路を辿って、どのような結果をもたらしているのか、明確には把握できないのだ。≫
●そのような時、「私たち(技術的=人工的生態系である現代の物流、情報の「輸送機構」の内の「いたるところにある存在」)」と「自然」とは、ほとんどそっくり(鏡像的)なものとなる、と。
≪(…)天体の運行のようには予測がつかないのが天候である。それが明晰な結果として現れたときでも、その結果が生み出された理由をつぶさに辿ることは困難なのだ。――石を積み上げて石垣を作るとか、環をつないで鎖をつくとかいった、部分から結果としての全体への説明が、そこでは容易に成立しない。≫
ライプニッツが語った微小表象は、「集合体としては明晰だが、部分としては錯雑としたもの」であったが、海の蠢きだけでなく、天候としての自然環境そのものが、そうした性格をもっている。予測が困難な、複雑なネットワークとしての連関を集めた、結節点としての集合体が、はじめに一度に知覚されるということ――「あるがままの多」の知覚はいっせいに襲いかかってくる、と『生成』でセールは述べていた。この『自然契約』では、それが「予想できない脅威としての自然」という、マクロな形象によって語られるのだ。≫
≪自然と人間とが、いずれも「あるがままの多」であることが認められるとき、両者は鏡像的なものとなる。≫
≪人類と自然とのあいだに和平の協定が結ばれるとしたら、まず、このように互いのすがたを認めあうのでなければならない。だがそのためには、人間集団のほうでも、個々の「私」が、なんらかの地域や小集団にただ帰属しているのではなく、「いたるところにある存在」としてあることを、十分に自覚する必要があるのだ。≫
≪「あるがままの多」としての自然は、蠢く海のように、みずからの鏡像の呼びかけに応える。その恐ろしげな姿は、私たち自身のそれでもある。≫
●多としての主体=私たちと、多としての客体=自然が、互いに「多」であるという鏡像性を介して呼応し合う。これが第6章にでてくるアナロジズムとつながってゆくのだろう。
●これを、ガタリの共立平面の四つのカテゴリーに無理やりあてはめて考えることもできるのかもしれない。多としての客体に当たるのが「プロセス的な機械状の門」といわれる「Φ」の領域で、多としての主体が「実存的テリトリー」といわれる「T」の領域だとすると、双方が呼応し合うための媒介的な領域として、「エネルギー的、信号的な流れ」といわれる「F」と、「非物体的世界」と言われる「U」の二つがあることになる。ここで「F」を、現前の過剰による混沌としてのノワーズな美女(と、そこからの様々な形の出現と解体)の領域、「U」を、空白な不在による混沌であるジレット(と、そこからの様々な「括り」の出現と解体)の領域だと考えれば、第1章とも整合的な気がする。
この流れで美学的なものを考えるならば、「F」がゲシュタルトの領域で「U」がフレームの領域ということになるのか(過剰なゲシュタルト=ノワーズな美女、空白のフレーム=ジレット)。「F」を「実(物・形)」の領域で、「U」を「虚(括り)」という風に対応させることもできるかも(虚/実という対応のさせ方は強引かも)。下の図はこの本に書かれていることとガタリとをぼくが勝手に混ぜ合わせてみたもの。



●十一月に撮った写真、その二。