●『アッチェレランド』(チャールズ・ストロス)を読んでいる間、メイヤスーという名前が頭に浮かんでいた。いや、メイヤスーについてほぼ何も知らないけど、たとえば「現代思想」一月号の小泉義之・千葉雅也対談で次のような会話が交わされていたのを思い出していた。
《小泉 「安定性と偶発性(contingency)は矛盾しない」というのが彼のポイントですね。
千葉 そうです。ただ、メイヤスーは、“Spectral Dilemma”という論文では、充足理由律がないがゆえに、明日突然、究極にパワフルな神が、必然的でなく、たんなる偶然として発生するかもしれない、という理論を立てていますね。
小泉 今までのところ、いないけどね。
千葉 ええ、今まではいなかったけれど、本当の神がついにこれから登場する「かもしれない」という理論です。この発想をメイヤスーは、神学と区別して“divinology”と呼んでいる。それで、その神が何をするかというと、今までの歴史で悲惨なしかたで死んできた死者たちをすべて復活させるというんですね。》
この部分を読んだ時には、なぜこんなこと(神とか復活とか)を考える必要があるのかさっぱりわからなかったのだけど、『アッチェレランド』を読むと、ああ、こういうことだったのか、とある程度の納得が得られる。この小説に描かれているのはまさに上で言われているような世界だと言うこともできるから。「死者たちをすべて復活させる」というところまでは行かないとしても、それを匂わす、あるいは、そのようなこともあり得るかもしれない世界、まではかなりの具体性をもって描き出していると思う(とはいえストロスは、話が安易に神や復活という---宗教的な手垢のついた、あるいは過剰に倫理的な負荷を負った---ニュアンスに染まってしまうことをとても巧妙な手つきで避けている、あるいはストロスにとって「復活」は戯画的な問題でしかない---ストロスは「復活」をおちょくっている---と思うけど、しかし結果として、ストロスの描く世界に触れることでメイヤスー的な「復活」をリアルに受け止める---真に受ける---ことが可能になると言える)。技術的特異点(シンギュラリティ)ということをもし真面目に考えるとすれば、そのような世界は現実的にも決して絵空事というわけではないということも納得させられる。
この対談の小泉義之による次の発言などは、ほぼそのまま『アッチェレランド』の世界であり、少なくとも『アッチェレランド』によって示唆される世界だと思う。
《メイヤスーは、宇宙全体、物質そのものが計算担体であると思っているフシもあるし、すべてのゲノム情報が集約されてコンピューター上に全生体が復活すると考えているフシもある。ただし、それがどういうかたちで現れるかわかるはずがないし、そもそも第四世界が誕生するとき、われわれとその子孫はすべて死ぬに決まっている。突然、訳もわからず死ぬんです。世界と法則が変わったということを生き延びて気づく存在者すら消えてしまう。》
今のところ(いくつかの短い翻訳以外は)メイヤスーを直接読むことのできないぼくにとって、上の言葉がたんにかっこよくぶっ飛ばした放言というだけでないリアルな実質をもつためには『アッチェレランド』を読む必要があった。逆から言えば、『アッチェレランド』を読んだことで、この小泉・千葉対談で言われていることの、ぼくにとっての重要性がぐっと増したということでもある。
●メイヤスーの「スベクトラル・ジレンマ」を直接読んでいるわけではないので小泉・千葉対談から読みとれる限りでの理解という上での話なのだけど、そこからすると『アッチェレランド』は「第四世界」の出現がたんなる絵空事ではないかもしれないということは示しているとしても、作品世界としてはあくまで「第三世界」に留まっている(そもそも第四世界など描きようもないのだし、ストロスはどちらかというと人間の「人間としての限定性」---それは常識からすれば異様なまでに拡張された限定性なのだけど---を「拡張の限界」を通じて問題にしているように感じられる)。
この対談から読みとれる限りの理解では、デ・ガリスの言う「全宇宙をコンピュータ化した人工知能=ゴッド・ライク・マシンが、その計算能力によってもうひとつ別の宇宙をつくってしまう」(一昨日の日記参照)ということが、メイヤスーの「第四世界」の出現に当たるものだと考えられるのではないかという気がする。