●最近は深夜アニメがすごすぎて、他のジャンルに対する関心が薄れてしまって困っている。今年に入ってからだけでも、『ユリ熊嵐』があり『響け!ユーフォニアム』があり、そして『ガッチャマンクラウズ インサイト』がある。
最近のアニメのすごさは主にその凝縮度にあると思う。アニメの創造性が最も高かったのは九十年代中頃だと思われ、今のアニメはその頃にくらべると作品が全般的に小粒になっていて、九十年代にあった野放図な力のようなものはないかもしれない。その主な原因は経済的なものだろう。しかし、小粒になった分、様々な要素の作り込みが濃密になり、そこに込められた思考も濃密になっている。もはや、個として一人で作品をつくる作家やアーティストでは敵いようもない感じになっている。
●『下ネタという概念が存在しない退屈な世界』四話。今期のダークホースというか、もしかしたらすごい傑作にまで発展するのかもしれないという期待が持てる感じになってきた。『ガンダムUC』や『ガッチャマンクラウズ』にも匹敵するような、複雑な(政治的な、とも言い得る)力の抗争と絡み合いを描く作品が、ほぼ下ネタとエロ表現ばかりで覆い尽くされているという異様な光景を見せられて唖然とする。これこそが日本のラノベ・アニメの達成なのか。ここでエロは、具体的な力(欲望)であるとともに、様々なものごとを抽象化する作用でもある(まさに、エロとは比喩のことだ、と)。
下ネタというものには、性的な雰囲気を予め薄めてばら撒いておくことで、制御不能な、強い、生々しい欲望を覆い隠す(あるいはガス抜きする)という役割もあり、第三話までの展開はそういう方向で、エロとはいってもあくまで「ネタとしてのエロ」だったと言えるが、四話では本当にヤバいエロが現れて登場人物たちみんなドン引きとなる。つまり、今までの枠組みが破壊されるというか、少なくとも再編されざるを得ない状況になって終わった(予告によると次回のタイトルは「下ネタテロは誰が為に」となっていて、まさに「下ネタテロ」を行う意味そのものが問われることになるようだ)。四話の段階でここまで踏み込んでくるということは、今後の展開は一体どうなってしまうのだろうか。
(この日記で前に書いた、『がっこうぐらし』のユキと「下セカ」の生徒会長は似ているという予感は、予想以上に当てはまってしまった。今後、まわりの登場人物たちが、この壊れてしまった生徒会長をどう取り扱ってゆくのかが、作品の行方を大きく左右すると思われる。)
例えば今期のアニメでは「監獄学園」が、昔からある典型的な少年マンガの欲望の形を忠実になぞっているように思うのだが、それと「下セカ」がいかに違うか。あるいは、『おくさまが生徒会長』みたいな、いかにもオタクが好みそうなソフトポルノとも違う。
●『ガッチャマンクラウズ インサイト』四話。ぼくが子どもの頃に見ていたようなアニメなら、これだけの、主題、エピソード、展開、見せ場、仕掛け、があれば、半年か一年くらいは引っ張れただろうと思うけど、それをわずか四話分のなかにぶち込んでくる。つくっている人たちは本当に大変だと思うけど、もはやこの密度が「当然」のことになりつつあるのが怖い。
「下セカ」でもそうだったのだけど、今のアニメでは四話目に最初のクライマックス、あるいはどんでん返しがくるというのは普通のことになりつつあるのだろうか。ぼくが子どもの頃ではなく、九十年代くらいのアニメでも、それだけで12話分くらいはもたせられて、しかもかなり濃密かつ精密な物語として評価されるだろうという、それくらいの展開とアイデアを四話で使い切ってしまう。九十年代と比べても三倍くらいは濃度が増している。しかもそれは物語のレベルだけでなく、ビジュアルやキャラ、演出の技法なども含めて、皆そのくらいの感じになっている(ビジュアルや演出に関しては、デジタル技術の進歩が大きいとは思うけど)。
一期「クラウズ」に対する二期「インサイト」の関係は、たとえて言えば『枯木灘』に対する『地の果て、至上の時』のような感じになっている。そして「地の果て…」がそうであるように、その展開は、何か決定的なことが起るわけでもないまま、様々な人たちの間にある潜在的敵対性がじわじわと顕在化するという、ひたすらモヤモヤとした、重苦しいものとなっている。
「クラウズ」という物語の、とりあえずの解決策(回答)であり、そこで肯定的に捉えられていたもの(クラウズの無条件配布)が批判にさらされるところから「インサイト」ははじまる。批判されるのは、要素としては、クラウズ=ルイ=スガヤマ首相だが、思想としては一之瀬はじめのものでもある。「クラウズ」の帰結であるルイ=はじめ思想を批判するのは、一方で、理詰夢や丈による、操作主義的なエリート主義であり(そういえば「クラウズ」で丈は東大卒という設定だった、そして丈は「クラウズ」では超ヘタレだった)、もう一方では、ゲルサドラ=つばさによる、民衆的な、共感的で素朴な正義観、平和観である。とはいえ、そもそも、つばさ的な単純なヒーロー像(ヒーローの「能動性」への素朴な信頼)はもはや役に立たないということが「クラウズ」の前提であったはずだが、そこにゲルサドラという強力な「共感的動員生成マシーン」が加わることで様相がかわる(そもそもクラウズとは、動員主義とは別の民主主義の可能性だったはずだが、それが否定されて、反動的な逆行が起きている)。そしてさらに、デマゴーグとしてテレビ司会者ミリオが役割を演じる。
(ゲルサドラによって形成される共感的動員は、世代、地域、階級の違いなどにより、そもそも簡単に価値観や利害が一致するはずのない人々を一気に特定の感情に染め上げるので、いわゆる「民衆」というイメージとは異なる。感情として一色に染まった人々はもはや個別の生活をもった人たちの集まりではなく、たんに数でしかなく、流動性がきわめて高い。)
ルイ=はじめ思想と書いたが、二人の思想は「クラウズ」のラストで一致するだけであって、根本的には同じものではない。「インサイト」のはじめは、操作主義的なエリート主義とも、共感的民衆動員主義とも、(ルイの)個としての内発性を信じる理想主義とも距離を置き、どれにもつかず、どれも否定せず、相互の敵対性がどんどん増してくる空気のなかで、ふらふらしながら、たった一人で熟考モードに入っているようだ(まるで「地の果て…」の秋幸がそうだったように)。「クラウズ」において、常に明快に態度や思想を表明し、ぶれることなく行動していた超人はじめが、「インサイト」においては、四話まで進んだ今まで、ほぼ何もしていないと言っていい沈黙のなかにいる。そして、ガッチャマンになる前のはじめがそうだったように、どんどん孤立してゆくようにみえる。
そのような状況で、テロリスト理詰夢があっさりと警察に投降し、ゲルサドラが首相公選への立候補を表明する、という出来事が起こって状況が大きく動く(もし立候補表明が本当のことであれば、おそらく、強力な「共感的動員生成マシーン」であるゲルサドラがスガヤマ首相を追い落とすことも可能だろう)。このような事態のなかで、はじめの沈黙と孤立と熟考モードは、さらに深まってゆくのではないかと予想される。
(そもそも、「インサイト」の世界のなかで、はじめが何かしらの「動き」を見せる余地があるのだろうか。)
(今までのところ、自身の態度――思想――表明をまったくしていない清音が、どのように動くのかがけっこうキーになるのかもしれない。あとはベルク・カッツェがキーかも。)
まだしばらくは、というかこの作品においてはおそらく最後の最後まで、胃が痛くなるようなヘヴィーな展開がつづくのだろう。ぼくはこの作品を観るのが辛すぎて、酒の力を借りなければ観られないくらいなのだけど、この作品に関しては安易なカタルシスで誤魔化すのは許されないと思うので、行き着くべきところまでちゃんとヘヴィーに追い詰めて、やり切ってほしいと願う。
●「クラウズ」「インサイト」のあからさまな欠点として、日本だけが世界のすべてのようになっていて、外国との関係がどうなっているのが分からないという点はある。というか、「外国」というものが存在するとしたらこれは成り立たないでしょう、という話になっているとは言える。