●桂離宮を見学している時、何人もの職人が庭園のメンテナンスをしていた。おそらく、何十人という規模の人数の職人が、持続的に毎日、なにかしらのメンテナンスをしていることによって、ようやく桂離宮という空間は維持されているのだろう。庭園は自然ではなく、完全に人工的でバーチャルな空間だから、常に保守をしていないと崩れてしまう。 (高度な技術を要するデリケートな)メンテナンスが、持続的に、四百年の間途切れることなくずっとつづいているからこそ、桂離宮はほぼ完全な形で今でも残っているということだろう。
(そのためには技術をもつ人材の継承も必須だろう。そして、そういうものの維持には持続的な大きなお金が必要だろう。)
そもそも桂離宮は八条宮という貴族のプライベートな庭園であり、家の者と、家の者に招かれたごくごく少数の特権的階級の者たちだけがそれを経験できる、というためにつくられた空間だと言える。あくまで、少数の客をプライベートでもてなす空間であり、(寺や神社のような場所とは違って)大勢の見学者が訪れるためにつくられたものではないのだろう。だから、大勢の人たちがおしかけると、それだけで壊れてしまうであろう、きわめてフラジャイルな空間だ。
(あくまで、ごくごく一部の特別な人たちだけに経験可能な、特別な異界だったのだと思われる。)
明治になって宮内庁管轄となって一般に公開されるようになるのだが、そこにも当然、保守のための制限がつく。
現在では、参観者は一回で60人以内に限定され、先頭にガイドがいて、最後尾に監視員がいる、という形で公開されている。参観者はこの二人に挟まれ、その間のどこかにいなければならず、ガイドの歩くペースに従って、定められた回遊路を、定められたペース(一周一時間)で移動することしかできない。ふらっと自由に歩き回ることはできない。そもそも、メインの建物である書院のなかには立ち入ることすら出来ない。このような制限は、桂離宮という空間を保守し、維持するために設けられているのだろう。
●昨日の日記で、桂離宮を観て荒川+ギンズを想起したと書いた。そして、二人がやろうとしてやりきれなかったことのいくつかが、ここでは実現されているのではないか、とも。この感覚は変わらない。しかし、荒川+ギンズだったら、このような「参観」するしかないような空間には満足できなかったであろう。それぞれの人が、もっと自由に、傍若無人に使用する(試行する)ことが出来、しかも、その内に「住み着く(暮らす)」ことが出来るような空間が求められていたはずだ。もし、桂離宮をそのように「使う」としたら、再び、ごくごく一部の特権的な階級の者もののみがアクセスできる空間としなければ、機能しないだろうし、空間そのものが維持できない。しかしそうなってしまえば、アラカワの考えていた「共同性」というものから決定的に離れてしまう。
●ともあれ、まず、桂離宮という圧倒的で奇跡的なコンテンツが持続的に存在するということは重要だ。