●引っ越した先の近所にはまともな本屋とか古本屋とかがなくて、散歩の途中にふらっと古本屋に立ち寄る、みたいなことができなくなった。だけど、すぐ近くに図書館の小さい分館があるのを発見した(昔はなかった)。へえ、と思って入ってみて、書棚をふらふら眺めていたら、法月綸太郎の新作があった(出ていたのを知らなかった)ので、借りてきて読んだ(買わなくてごめんなさい。)。
●『キングを探せ』。あの混濁した『二の悲劇』や『ふたたび赤い悪夢』と同じ作家が書いたとは思えないくらいの、一行の無駄もない、純粋にパズルとして組み立てられたような小説だった。どこかで「濁り」が出てくるのではないかと思っていたのだけど(法月綸太郎を読むということは、それを期待することとほぼ同義とも言える)、最後まで目立った濁りはなく、強いていえばうつ病の女性の死因の「ありえなさ」に(おそらく「あえて」埋め込まれたありえない設定に)新本格の魂のようなものが確かに脈打っているのを感じたくらいだろうか(リアリズム=もっともらしさへの強い敵意のような)。そのような意味ですごく「突き抜けた感」があった。
たぶん、ネタとしては短編のネタなのだと思う。それを、小説の叙述の技法のアクロバットと、これでもかというほどの「現代風俗」の取り込みによって膨らませて、やや短めの長編となったという感じか。でもそれは水増しという感じではまったくない。むしろ、短編として書かれたとしたら、へえ、なるほどね、と感心して終わりだったのではないか。読者にミスリードを誘うネタそのものが面白いというより、長くなって複雑になったその「複雑さ」そのものが面白いのだと思う。そのような意味で、ほぼ純粋に(この「ほぼ」が曲者なのだが)形式主義的な作品だと思った。
たとえばこの小説には、「いかにも現代的」というような、現代風俗的な細部がみっしり詰め込まれているのだけど、それは作品をいかにもイマドキ風のものにするための意匠とはまったく異なる。現代風の細部は、現代を表象する意匠としてではなく(なにしろ、リアリズム=もっともらしさは敵視されている)、あくまでパズルを構成するピースの形象として作中に導入される。つまり、幾何学模様を使ってパズルをつくるのか、不定形を使ってつくるのかということ。あるいは「現代」は、パズルを構成するための条件(背景)として導入されている。つまり、白い紙の上に描くのか、黄色い紙の上に描くのか、または、三次元上で構成されるのか四次元上で構成されるのか、ということ。
つまり、携帯電話があるのとないのとでは、監視カメラが街中にあるのとないのとでは、トリック=パズルそのものも、それを構成する条件も違ってくるということ。とはいえ、条件の変化がパズルそのものの構造に不可避的に影響を与えてしまうという意味では、パズルの構造を通して「現代」が滲み出ているともいえて、そのような意味では「現代」を表現しようとしているといえるかもしれない。しかしそれは、「内容」によってではなくあくまで「形式(構築)」によってということになる。要するにそれが「形式主義」ということの内実であり、それはおそらくリアリズム=もっともらしさへの敵意によって要請されていると思う。
(リアリズムの拒否とは、現実や具象や内容の否定ではなく、それらが「もっともらしさ(常識)」を基準として配列され、測られてしまうことへの否定なのだ)
純粋にほぼ形式主義的である、の、「ほぼ」というのはそのような意味だ。透明なパズルのように構築されたこの小説を読むということはだから、純粋にパズルを楽しむということよりも、小説を純粋なパズルとして組み立てさせているもとにある、世界がもっともらしく常識的に存在してしまうことへの敵意の感触を読み、それを味わうということだと思う。風俗的な細部はどこまでも紋切り型であり、人物ぱ皆薄っぺらで感情も通り一遍で、それらすべてはただ形式に奉仕するだけのようだが、その形式そのものから滲み出るものは、決して薄っぺらではないし、冷たくもない。
パズルという言い方はやや誤解を与えるかもしれなくて、この小説は叙述の技法によって読者のミスリードを誘うという構造をもっていて、つまり、静態的な、図として描けるようなパズルではなく、時間の経過による状況の変化と、それを「読む人(観測者)」が存在することが大きなカギとなる。この「時間」というのはとても重要な要素ではないか。たとえば、『誰彼』のように、パズルは決して閉じられない、後から情報を追加することで絵柄はいくらでも反転し得る、というのは実は時間ではなく無時間的な構造であろう。時間が問題となるとすれば、「いくらでも反転可能である」という構造それ自体が変化しなければならない。あるいは、「いくらでも反転しつづける」という構造それ自体が決して閉じられないものであることが示されなくてはならなくなる。そのような意味での時間が、この小説では問題になっているように感じた。