●五月の大江健三郎シンポジウムの講演原稿を近く提出しなければいけないので、ここ何日かかけて『水死』を読んでいたのだが、この小説はやはり半端なくすごい。さらっと読み流せるページが一頁もないというか、すべての部分で細部がみっしり詰まっていて、それらが緊密に関係し合い、響きあっている。途中での息継ぎが難しいというほどのみっしり具合だ。正直に言えばぼくはこの小説をあまり好きではないというか、受け入れがたい点が多々あるのだが、こちらのヤワな疑問や反発など何歩も先回りされていて簡単に跳ね返されてしまうくらいに、一個一個の細部が、それがそのようなものでなければならないという必然性をもって、緊密に絡み合っている。
粗雑な作品というのは要するに、作品の内的な必然性ではなく、外的な確からしさやもっともらしさや言い訳に依存し、一般的な問題や常識や説得力に訴えかける度合いが高いということなのだと思うけど、『水死』では、一見そうであるかのような細部も、読み進めてゆくうちにまったくそうではないことが分かるようになっている。ああ、さっき疑問に思ったあれはやはり、ああでなくてはならなかったのだと、後になって必ず思い知らされるようになっている。読んでいて一瞬も気を緩められるところがない。書かれていることの一つ一つを、(それに対してぼくがどのような意見を持つかとは無関係に)いちいちしっかりと受け止めていなければ次にすすめない。最後の最後まで緩むことなくそうなのだ。読み返すたびに、そのことをさらに強く思い知らされることとなる。ぼくは既にこの小説を何度も読んでいるし、『水死』論まで書いているのだが、それでもなお、読んでいる途中で、「これは要するにこういうことなんだな」と甘く見積もった感触は、その後に必ず覆されることとなった。