2022/06/14

攻殻機動隊SAC、「Individual Eleven」、「The Laughing Man」につづき、「Solid State Society」も観直した。同じ神山版攻殻でも、シリーズによってけっこう絵柄が違うのだなあと思った。

傀儡廻し」は「人形使い」のそのまんまの言い換えで、押井版の「人形使い」がネットのなかで自然発生し、クサナギと融合したのに対して、神山版の「傀儡廻し」はクサナギ(の無意識)から分離して発生したものであり、「ニ」が「一」になる押井版と「一」が「ニ」になる神山版は対になっている。

クサナギは二年前から組織を離れ個人で活動しており、(今回の一応の「犯人」である)財務官僚コシキは、二年前に自宅で死亡していて、彼のリモート義体がその死後、ソリッドステートのシステムを開発した。いわば、死んだ官僚の義体にクサナギの無意識が憑依し、クサナギは、自らの無意識が犯している犯罪を、自らの意識が追っているという、堂々巡りのような状態にあった。「ソリッドステートには近づくな」というクサナギの言葉を、当初バトーは「ソリッドステート=素子」であることから「モトコ(クサナギ)には近づくな」を意味すると思い、傀儡廻し=クサナギだと思い込む。その後に、それを間違いだと気づくが、しかし、ラストまで行くと、それはあながち間違いではなかった(違う意味で正しかった)、ということになる。つまりバトーは、クサナギ自身よりもクサナギ(の無意識)を理解していた、と。

この物語の背景には少子高齢化児童虐待があり、そのような切迫した問題の解決のためという「目的」が、(明らかに違法である)「手段」を正当化すると、「犯人」は考える。ただここでも「目的が手段を正当化するか否か」という単純な問いがたてられるのではなく、その手段の実行には不可避的に「政治(政治家)」が絡んできて、それによって目的が十分に果たせなくなるという、社会の複雑性が間に入ってくる。だからここで真に問題になっているのは、組織での行動(九課の一員であること)に限界を感じて一人になったクサナギだが、組織を介さない({「手段の正当性」を問わない)独善的な行動でもまた(彼女の無意識もまた)、同様にその限界を感じているというところにある。あるいは、九課の活動ではあくまで外側から官僚組織に介入するしかないのに対して、官僚に憑依することで内側から直接介入できると(無意識が)考えたが、官僚組織という内側にもまた、その外から介入する政治家という存在があったということで、結局は思い通りにはいかないということでもある(それが権力分立だ、ということではあるが)。

独善的に行動するクサナギに対して、九課はあくまでもある限定の範囲内で行動するが、それもけっきょく、ある限定された解決をもたらすに過ぎない(アラマキは九課を、少数精鋭=スタンドプレーの組織から、人員を増やしてチームプレーの組織に変えようとしている、これはアラマキにとってひとつの挫折、あるいは妥協ではないか)。神山版攻殻に共通するのは、社会の複雑性の中で、個人の思惑(人が正義と信じるもの)は、かならずその意図通りには実現されないということではないか。社会のなかで多くの媒介---様々な雑多な力---を通過するうちに、行動の意図と行動した効果・結果が乖離し、しばしばそれはうらはらになる。これは敵も味方も関係なく、法を守る側も犯す側も関係なく、誰にとっても等しくそうである(この点が「SAC_2045」では破られ、もはや人ではないポストヒューマンのシマムラタカシは、自分の思いを社会のなかで実現させてしまうのだが…)。

だから、神山版攻殻が描くのは、社会問題でも政治思想でもなく、(行動の意図とその効果が必ず食い違ってしまうという)「社会や政治という(諸力がせめぎ合う)過程そのものの姿」なのではないかと思った。「Solid State Society」ではそれが、クサナギの分裂という形で端的に示されているのではないか。