●「浦沢直樹の漫勉」。萩尾望都回、浅野いにお回が面白かったので、検索して、今まで放送された分すべてを動画で観てしまった(シーズン〇の、かわぐちかいじ、山下和美、シーズン1の、東村アキコ、藤田和日郎、さいとうたかを)。
番組を観ていると、浦沢直樹がNHKに持ち込んだ企画だという感じがする。マンガ家のスタジオに定点カメラを置かせてもらって、実際に描いているところを撮影し、その映像をもとに作者と浦沢直樹が話しをするという番組なのだが、ゲストのマンガ家より前に(シーズン〇で)、浦沢直樹が自分のスタジオにカメラをセットして、どのように設置すればカメラによる圧迫感がなくなるのかを試したりしていた。
浦沢直樹だからこそ、現役バリバリの作家に「ちょっとスタジオで描いているところを撮らせてもらいたいんだけど…」と頼めるのだろうし、実作者である浦沢直樹が絡んでいるからこそ、「情熱大陸」とか「プロフェッショナル」とかみたいにドラマチックに謳い上げる調子じゃなくて、ちゃんと技術的なところをかっちり見せられるのだろうし(平愛梨による絶妙にポイントを外したナレーションが、謳い上げない、分かり易い物語に落とし込まない、ための的確な効果となっていてすばらしい)、大御所である浦沢直樹が出て来ているからこそ、作家も出し惜しみせずに手の内を見せるのだろう。自分の仕事も忙しいだろうに、自分はそれが出来る立場にいるのだから、自分がそれをやらなければならないという使命感でやっている企画であるようにみえた。つくづく、浦沢直樹は偉いなあ、と思う。
(観ていて楽しいのは、巨匠と言ってもいいはずの浦沢直樹が、他のマンガ家の「描き方」に素朴に驚いて、ガチで影響を受けているように見えるところだ。そして、作者自身もまた、自分が描いている映像を見て、様々なことを発見しているのもおもしろい。)
面白かったのは、東村アキコが、昔ながらの王道の「マンガ」を描こうとしていて、それが浅野いにおときれいに対照的になっていたこと。東村アキコのあの(手の速い)描線は、まさに昔ながらのマンガの描線だし(横山光輝の絵が好きだと言っていたのがとても納得できる感じ)、「人物の表情と輪郭線が完成していれば、自分に何があっても、アシスタントたちの力で、雑誌に載せられる――原稿を落とさない――最低限のクオリティは確保できる」とか「マンガには本来背景なんていらないんじゃないか、昔のマンガはもっと白かった」などの発言も、それを表しているように思う。
(東村アキコには「中島みゆき」的な強さというか、恐ろしさがあるように感じられた。)
スタジオの風景も、アシスタントが二人しかいなくて、しかもその二人と壁によって完全に隔てられた空間で一人で淡々と作業する浅野いにおと、十人以上のアシスタントと共に、わいわい言いながら(アシスタントのアイデアを採用したりしつつ)一日で一気に38ページを仕上げてしまう東村アキコとでは、まったく対照的に見えて面白かった。
ただ、東村アキコの絵は、それ自体でそんなに魅力的なものには見えない(『かくかくしかじか』と『東京タラレバ娘』しか読んでないけど)。おそらく東村アキコにとってマンガは、絵が立ちすぎてもいけないものなのだろう。そこそこの完成度があり、登場人物の表情が生き生きと印象的であれば、あとは必要以上に目をそこに留まらせるものでない方がよく、さっと流せる方がいい、と(目を留まらせるのはむしろ、コマ当たりの言葉の量?)。重要なのはあくまで、人物であり、感情であり、ユニゾン的同期であり、単線的に流れてゆくものの緩急であって、そういう意味でも王道の「マンガ」という感じ。それはぼくには、どうしても古いという感じに見えてしまうのだけど、でも、いつの時代もメジャーは常にそっちの方なのかもしれない。
一方、浅野いにおは、それぞれの層やイメージを作り込み、それ単体ではなく、それらをぶつけたり、引き離したりすることで、はじめて浅野的「何か」が見えてくる感じ。そのためには「絵」自体が強く語ることが要請される。常にいくつかの流れがあり、それが合流したり、分離したりする。「デデデ…」の物語(というか設定)からして、分離したいくつかの要素の強引な混合によって成り立っている。背景の方が充実しており、人物はむしろ「抜け」のようにしてあり、しかしその絶妙に案配された「抜け感」の希薄さのなかに、別の層から様々なものが流れ込むことで人物が生きる感じがある。
●あと、藤田和日郎は、ぼくには苦手な、典型的に少年マンガ的な絵なのだけど、描き方をみていると意外にオーソドックスなものに見えた。浦沢直樹は「衝撃的」とか言っていたけど、あれが衝撃的に見えるということが、マンガにおける描画がいかに特異な形で制度化されているかを表しているように思われた(下書き→ペン入れ→背景→ベタ・ホワイト→トーン、みたいな)。たとえば木炭デッサンをする時なら誰でも、画面に木炭を置きながら形や空間を探ってゆくのだし、それは、アタリであると同時に下地にもなり、描画行為そのものでもある(そこに明確な区切りはない)。そして、食パンや練りゴムを使うことは、決して「消す」こと「修正する」ことではなく「描く」ことである。デッサンでは誰でもが実践しているこのようなやり方を、藤田和日郎はマンガの描画でもインクと修正液を使ってやっているということなのだと思った。
ただおもしろいのは、マンガは印刷されることが前提だから、生原稿では、インクの線と修正液の積層によって現れるイメージが、印刷されるとフラットな線画となって現れて、ずいぶん印象が変わるところだ。藤田和日郎は画面に映った自分の絵を見て、「カメラはホワイトの跡も写してしまうんですね」と言っていたけど、そういう言葉が出るというのはおそらく、普段は自分の絵を印刷後補正して見ているということではないかと思い、カメラを通してそれを発見するところもおもしろいと思った。
(浅野いにおが、あとで消さなくてもいいように印刷に出ない水色のシャーペンで下書きをしていたり、東村アキコが、印刷所の人と仲良くしておくのも重要、みたいなことを言っていたりしていたのも、印刷を前提とするマンガのトランスメディア性がよく出ていると思った。)