●お知らせ。長島明夫さんがつくっている雑誌「建築と日常」3・4合併号(特集:現在する歴史)で、「あなたがとりわけ歴史を感じる建築と、その理由を教えてください」というアンケートに答えています。アンケートとはいえ、三ページ分くらい書いています。
http://kentikutonitijou.web.fc2.com/no03.html
●記憶はどこまで保持しておくのがいいのか。これは、西川アサキさんとはじめて会ったトークの打ち上げの時にはじめて聞いて、その後も何度か聞いた話なのだが(あくまでぼくが「こう理解した」ということで西川さんの意図をどこまで正確に理解しているのかは分からないけど)、たとえば、当たる確率や配当の高さの異なる複数のスロットマシンがあったとして、それらのどのスロットマシンのレバーをどのような配分で引くのが最も有利なのかを、実際にレバーを引きながら判断するプログラムというのを、ベルクソンの円錐モデルをヒントにしてつくったことがある、と。
その時に問題になるのは、過去のデータをどの程度まで参照するのがいいのかということだという。参照する記憶があまり浅すぎると、判断が目先の不確実性にとらわれて安定しない。しかし、記憶の量が多すぎてもフレキシブルな判断ができずに判断が硬直化して上手くいかない。そこで、とりあえずすべてのデータをストックしながら、どの程度過去のデータまでを参照すべきなのかという参照の深さを状況によって変動させるのだ、と。
過去をどこまで参照すべきなのか。どこまで憶えていて、何を忘れるべきなのか。すべてを問題とすることが不可能だとすれば、何を判断材料にして、何を切り捨てるべきか。おそらく「歴史」の問題の難しさはここにあるのではないか。だがこの話で「参照すべき」の「べき」とは、「正義(正しさ)」ではなく「最適化計算」において、ということだろう。
生物の進化というのは、意識というものが発生する前までは純粋な「最適化計算」としてあったと言えるのではないか。ある状況に対して、どのような突然変異体が実際に生き残るのかという計算。生物が、というより、状況と生物とが(つまり「世界」が)計算をしている。だが、意識の発生は最適化計算とは別の価値を生じさせた。それはまずは欲望や感情や快楽(クオリア)という形をとる。そしてそれが人間において、法、正義、正しさ、という概念を生む。
人間がやっていることとは結局、「最適化計算」と「欲望・感情・快楽(クオリア)」と「正しさ」という、ある程度重なり合いながらも決して完全に一致することのない三つ異なる価値のせめぎ合いなのではないか。最適化計算というのは、本来は世界そのものが行っている計算で、「意識」からは切り離されていたが、人間は科学を通して(十六〜十七世紀の科学革命以降)その一部分にアクセスする力を得て、その範囲は急速に拡大しつつある。そして、そのことで人間のやること考えることはとてもややこしいとになった。
最適化計算と欲望・感情・快楽(クオリア)とは、完全に一致はしないとしても、ある程度の相関関係はあるだろう。あるいは、最適化計算と正しさとも、相容れない部分はありつつも、ある程度の相関関係はあると言える。そして、欲望・感情・快楽(クオリア)と正しさもまた(そもそも正しさは欲望・感情・快感から生まれたわけだから)、ある程度の相関性は期待できる。しかしそれはどれも「ある程度の」に留まるだろう。
(「最適化計算」「欲望・感情・快楽(クオリア)」「正しさ」はそれぞれ、ラカンの「現実的なもの」「想像的なもの」「象徴的なもの」に対応するような気がする。やはり、精神分析についてはもう一度ちゃんと考えないといけないのかも。)
(「真」「善」「美」とはおそらく違う。科学は、「それに従うことが最も理に(利益に)かなう体系」であって「真」ということではないのではないか。「美」が「クオリア」に対応するとして、「真」と「善」とが「正しさ」に対応し、「最適化計算」はたぶんその外にある何かだと思う。)
(最適化計算とは、論理形式(≒正しさ)とは違う何かなのではないか。)
(追記・例えば、数学は「正しさ」にかかわるが、物理学は「最適化計算」にかかわり、両者は重なり合いながらも微妙にずれる、とか、「正しさ」としての数学は数学それ自身を目的とするが、「最適化計算」としての物理学は数学を道具とする、とか。)
様々な広さ、深さの記憶があり、様々な広さ、深さの歴史がある。そのとき(ある場面での判断において)、そのどのくらいの深さを「良し」とするのかは、それを判断する尺度が、最適化計算なのか、クオリアなのか、正義なのかで、ずい分と異なってくるのではないか。かといって、その尺度をどれか一つに特化するのは難しい。
(そして、われわれ一人一人の脳や身体は、それぞれに別の広さ、別の深さの記憶や歴史において生きている。)