⚫︎『光りの墓』(アピチャッポン・ウィーラセタクン)をブルーレイで。改めて、これは本当に素晴らしいと思う。コロンビアで撮影されたという『MEMORIA 』も面白いのだけど、アピチャッポンの世界はやはり基本としてタイの風土の中でこそ成立しているように思われる。
古い学校の建物を利用したできたばかりの病院。眠り続けてしまう病にかかった兵士たち(男性ばかりのようだ)のみが入院している。そこに、かつてこの学校の生徒だったこともあるという初老の女性が、兵士のうちの一人の若い男性をケアする仕事でやってくる。この女性は足が悪く、右足は左足より10センチ短いという。右足にだけ底の厚い靴を履き、杖をついている。彼女には、ネットで知り合って移住してきたというアメリカ人の夫がいる。さらにこの病院には、眠り続ける患者たちの「夢」を見ることができるというシャーマン的な若い女性がいる(彼女は、芸能人を使って行われている化粧クリームのキャンペーンの手伝いの仕事もしていて、普通に世俗的な人だ)。
この映画は、物語を語るというよりも、高精細の映像、開かれたフレーム、非常に繊細に拾われ丁寧に作り込まれた音声によって、あらゆる矛盾を溶かし込んでしまうような驚くべき鷹揚さを持つ時空を立ち上げる。病院の周りには大きな池があり、林のような公園があり、そしてなぜか軍隊がそこここに重機で穴を掘っている。池には奇妙な物体が浮かんでいるし、林では木の影で野糞をする人もいる。
眠り続ける兵士は、時々ふと目を覚まし、しかしすぐにまた唐突に眠りに落ちてしまう。眠り続ける男のケアをし、たまに目覚めた時に食事を共にして語り合うことで、女性と男とは交流を深め、女性は男のことを新しい息子と呼ぶようになる。公園の東屋のようなところで食事をし、兵士を辞めて饅頭屋のチェーンを始めたいという夢を語りながら、男はまた、すっと寝入ってしまう。そこへシャーマン的な女性がやってきて、男の手に触れ、彼が見ている風景をおばさんも観たいかと彼が言っている、と言う。
シャーマン的な女性が男に代わって、というか、その「若い兵士として」、初老の女性を、現実的には(というか、映画を観ている観客の「知覚」的には)林のような公園である、夢の中の宮殿をエスコートする。そこは、林のような公園であると同時に宮殿であり、シャーマン的な若い女性は彼女自身であると同時に、今、眠っている若い兵士でもある。宮殿には大広間があったり、部屋中が鏡である王子のための化粧室があったりするし、同時に、林のような公園には、初老の女性が老人会で作った蘭の花があり、大木に刻まれた洪水の痕跡があったりする(こちらは、実際に画面に映っている)。二人はその両方を見ている。初老の女性もまた、兵士の夢の中の王子の化粧室の鏡に映った自分の姿を観ているようだ。
その後、池の見えるベンチに座る二人。初老の女性は、夫が飲んでいるサプリメントで、アルツハイマーやリウマチを予防するものだと言って、ペットボトルの水に複数の粉状のものを混ぜ、これを飲むと私も起きていられると、シャーマン的な女性に飲むように促す。常識的に考えれば、「ここ」にいるのは眠りの病にある若い兵士ではなく、シャーマン的な女性の身体であり、彼女が薬を飲んでも兵士には効かないはずだ。しかし、ここは現実の公園であると同時に夢の中であり、彼女は彼女であると同時に兵士でもある。
シャーマンでもあり兵士でもあり、彼女でもあり彼でもあるその人は、薬を飲むことはせず、初老の女性の悪い方の右足に、その液体をかけ、脚を舐める。これは、慈しみの行為であると同時に、あからさまに性的な接触であるように見える。しかしこれは、一体、誰と誰とが接触しているのか。シャーマン的な女性と初老の女性なのか、若い兵士の男性と彼をケアする初老の女性なのか、この時空が夢の時空でもあるならば、若い兵士と初老の女性の年齢差も意味がなくなり、二人の固有性すらあやふやとなり、誰でもあり誰でもない二つの身体の接触であるかのようでもある。魂と体は分離し、それぞれの固有性すら消えていく。
(ここは病院であり、科学と医学が支配する。しかし同時に、シャーマン的な女性や、宇宙のパワーを説く怪しい瞑想家が出入りしている。廊下には普通にニワトリが歩いてもいる。そしてかつては学校であり、学校であった記憶の層に初老の女性はアクセスできる。また、もっと古い層として、かつてここは王宮であり、その時代の戦士たちが今もなお(現在の兵士たちの生気を吸い取りながら)闘っているという。若い兵士はこの層に引き込まれて眠っている。さらに、病院の周りには軍隊が常駐し、シャーマンの女性は広告業界(あるいは化粧品業界)で働く人であり、そこには政治や資本主義の層もある。民間信仰の偶像が現実化し、池には奇妙な物体(生物?)が浮かんでいるし、空には巨大なゾウリムシが浮遊しているし、野糞をする人も普通にいる。これらのすべての層が、互いを排除することなく溶け合っている。)
ただ、このようなことを「言葉(意味)」として書いてもあまり意味はないかもしれない。重要なのは、このような出来事が起こることが何ら不思議ではなく、それを普通に受け入れることができるような時空のありようが、この映画全体を通して感覚的に形作られているということだろう。そしてそのための重要な背景として、タイの風土や環境があるように思われる。