⚫︎スーパーデラックスで『フリータイム』(チェルフィッチュ)を観たのは16年前の3月だったが、今でも憶えているが、会場に入って舞台上の美術を見た時に嫌な感じがした。中途半端に状況を(舞台がファミレスであることを)説明していて、中途半端にオブジェとして自己主張していて、これからここで演劇を始めるのに邪魔にしかならないように思えた。しかし、始まってみれば、この舞台美術があったからこそ、この作品はこうなったという、この作品の固有性を決定するような、作品そのものと不可分であるような装置だった。まさに「これからここで演劇をするのに邪魔にしかならないような装置」が、この作品をこのようなものにしていると思った。
この作品を特徴づけるような(ぐるぐる円を描いている)前屈の姿勢も、セリフとも物語内容とも無関係に、俳優たちが常に足元を気にしているというか、地上20センチくらいの高さが常に意識されている(無意識に意識されているかのように意識されている、常にその高さを足が弄んでいる)感じも、このような装置との相互作用の中でしか出こないだろう。演劇を観ていて、こんなに足元に注目することも、そうそうない。「その空間」の中でこそ立ち上がる演劇というのがあるのだなあと思い知らされた。
(作・演出の岡田利規は、この装置をどのように発注したのか気になる。こういう装置が出てきたから、このような演出になったのか、あるいは、初めから地上20センチくらいの高さ/低さが意識されるような装置を作るように要求していたのだろうか。)