●『理由』(大林宣彦)で気がついた(気になった)ことを備忘録的に書いておく。以下に書かれることは、『理由』という作品の本流にかかわることではなく、あくまで傍流のひとつにかかわることである。
『理由』は、事件の当事者たちが、事件を事後的に振り返るという形式で物語が語られる。事件の当事者たちのもとをリポーター(およびカメラマンなどのスタッフ)が訪れて、インタビューをする。その時、インタビューを受ける当事者たちは、必ずといっていいほど、リポーターやスタッフたちにお茶(なにかしらの飲み物)を出す。お茶を出すシーンは、本当にくどいくらいに繰り返される。
ここで、お茶を出すという役割は、かならず女性に割り振られる。繰り返し、繰り返し、「お茶を出す女」の場面があらわれる。するとどうしても、女性ばかりがお茶を出すということに対する違和感を覚えることになる。しかし、さらに映画を観つづけていると、ひょっとして、これは意識的になされているのではないかと思うようになってくる(それくらいしつこく繰り返される)。日本映画の多くにおいて、あたかもそれが自然であるように「女性がお茶を出す場面」が繰りかえされることに対して、皮肉のようにしてそれをおちょくっている、あるいは自覚を促そうとしている、のではないか、と。
(追記。これは「日本映画の多くにおいて」という一般的な話ではなく、過去の自分の作品において、ということかもしれない。つまり、反省的自己言及かもしれない、と気づいた。)
で、きっとそうであるに違いないと思うのは、何回かは数えてはいないが、何度も繰り返される「お茶を出す場面」の、一番最後の一回だけ、男性が女性リポーターにお茶を出しているからだ(しかもかなり妙なやり方で)。この場面を観て、やはり意識的にやっていたのだなと思う。ここまで違和感をもたなかった観客がいたとしても、この最後の一回を観れば、遡行的に違和感を覚えることになるだろう、と。最後の一回は、一種のオチのような機能をもつと思われる。
(このような、明示的ではない---本流と強く関連づけられているわけでもなく、強く主張されているわけでもない---細かい埋め込みが、「作品」というもののなかには無数にあるだろう。)