●あいかわらず、「THE LIFE OF BIRDS」というBBCがつくったドキャメンタリーのシリーズをだらだら観ている。チョウゲンボウという鳥は、非常に視覚が発達していて、紫外線まで見える。この鳥のエサはハタネズミというネズミで、しかしこのネズミは昼間はほとんど素穴から出ない。チョウゲンボウの発達した視覚は、ハタネズミの尿の跡を草原の一様な広がりのなかから図として浮かび上がらせることが出来る。尿というしるしをもとにして、チョウゲンボウはハタネズミの位置を把捉する。ナレーションは語る。紫外線の視覚は匂いさえ見えるものにする、と。
一方、深い森に生息するヒメコンドルは嗅覚に優れている。鬱蒼と茂る木々に邪魔されるので、ここでは視覚は有効ではない。広大な森の一部に隠された小さな肉片の臭いを、一キロ先から嗅ぎつけて、ヒメコンドルはやってくる。様々な臭いが入り交じっているであろう森のなかで、一キロも先から、肉のある正確な位置を嗅覚だけをたよりに探り当てることができる。ここでは逆に、嗅覚が視覚的に機能している。
ここで明らかになるのは、視覚とか嗅覚とかいった、感覚の特性(カテゴリー)そのものは問題ではないということだ。視覚には視覚に固有の感覚領域があり、嗅覚には嗅覚に固有の感覚領域があるということが問題なのではなく、つまり、特定のジャンルやカテゴリーやフレームが問題なのではなく(絵画には絵画の、小説には小説の、演劇には演劇の、固有の問題があるのではなく)、それは、便宜上、たまたま(あるいは強いられて)選択されたものに過ぎず、重要なのは、その形式がその外で「動いているもの」をいかにキャッチすることが出来るのかという点にある。その感覚の形式が世界そのものとの通路を保っていること、それが世界のなかにあるかすかな徴候をいかに高い精度で的確に察知できるのかということ、そこに問題があるのだ。異なる感覚、異なるジャンル、異なる形式は、互いに変換可能であり、変換可能であること(つまり、チョウゲンボウもヒメコンドルも、どちらのやり方でも補食に成功し、生き延びることが出来ること)によってはじめて、それら諸形式の「外」に「現実」が存在することが証明される。(確定された「外-現実」が先にあって、それが特定の表現形式に翻訳されるのではない。)