●岡崎乾二郎の作品を観ていて思ったのは、それらの作品が「目」によって制御されている度合いの低さだ。大きな作品であれば、一つ一つの筆触は目で制御されていないとしても、それらの筆触たちを組織し、統合するには、「目」による厳しい管理の度合いがどうしても強くなる。しかし、ごく小さなサイズの作品であれば、絵の具は画面に、それこそ「パンにバターを塗る」ように塗布されるので、「目」の入り込む余地が小さくなる。その分、それ以外の要素が前に出て来る。勿論、絵画は「目で観る」もの、「目で観るしかない」ものなのだが、それは必ずしも「目でつくられる」ものだというわけではない。
●絵の具の堅さや粘りの具合は、パレットの上で絵の具がつくられる時、絵の具を混ぜ合わせるナイフを持つ手の感触で測定される。あるいは、絵の具の透明度は、絵の具に混ぜられるメディウムのと絵の具の量の比率によって把握される。(アクリル絵の具のメディウムは濡れている時は白く、乾燥後に透明になるため、絵の具とメディウムが混ぜられている時の「目で見た色」は、乾燥後の色とは違っていて、画家はその変化を経験的なカンによって頭のなかで修正しなくてはならない。)このように、画面に塗布する絵の具をパレット上でつくる段階で、「目」とは異なる感覚の作用がいくつも入り込む。これは当然のことで、例えば料理をつくる時、味のイメージだけでつくることは出来ず、素材の組み合わせや作業の行程のイメージが、味のイメージへと変換されてはじめて、料理という技術が成り立つ。その時、味のイメージが遡行的に作業の行程を導くだけでなく、作業の行程のイメージが、味のイメージへと結びつき、それを導くこともあるだろう。何かを生産する技術というのは何にしろ、異なる感覚の間の変換を制御するアルゴリズムとして成り立つ。
●だが料理は、料理の行程だけで成り立つのではない。その時々の素材の状態、あるいはコンロの火力や鍋などの調理器具の状態にこそ左右される。そこで、作業の行程によってイメージされる「味のイメージ」と、実際に「そこにある素材」によって、今ここでつくられた「実際の味」との間にある微妙な差異が、作業をしつつ、常に調整されなくてはならないだろう。そしてこの(その場限りの一回的な)調整の能力こそが、その技術者の技術の精度と関係する。作業の行程の組み合わせから、新たな「味のイメージ」を創造するインスピレーションと、実際の作業を通じて、実際の味とイメージとをつき合わせつつ、調整してゆく精度。優れた技術者には、この両方の能力が必要とされるだろう。
例えば、松坂大輔のスライダーは、ほぼいつも「松坂のスライダー」という特徴を共通して持つだろう。しかし、実際に投げられるボールは、一球一球が異なり、まったく同じボールなどあり得ない。だからそれを打とうとするバッターは、「松坂のスライダー」という共通したイメージを持ち、それをどのように打つのかをイメージしつつも、同時に、その時々に実際に投げられた「そのボール」とイメージとの差異を、瞬時に調整しつつ、対応しなければならないだろう。(勿論実際には、ストレートを待ちつつも、スライダーにも対応出来るようにする、とか、そういうもっと複雑なことがなされているのだろうけど。)
●画面に絵の具が塗布されるという時、そこに起こっていることは何なのだろうか。それは、筆とキャンバスの表面とが触れて、擦れることで、筆に付着していた絵の具がキャンバスの方に移動する、ということだろう。その時、既にキャンバス上に付着していて、完全に乾いてはいなかった下の層の絵の具の表面が、筆に擦られることで、上から塗布された絵の具と、微量混ざるということも起きている。上から絵の具をのせるという行為は、たんに絵の具を追加するということではなく、既にキャンバス上にある絵の具を筆が擦って傷つけるということでもある。この微妙な具合がタッチとして画面にあらわれ、だからタッチをコントロールすることは、それらの全てのさじ加減を調整することである。このタッチの感触は、下の絵の具がどの程度の厚みで、どの程度乾いているのか、ということに大きく影響される。(手の感覚だけではコントロール出来ない。)そして絵の具の乾燥の速度は、気温や湿度によって大きく影響を受けるから、塗ってからの時間だけでは乾燥の程度は判断が出来ない。たんにタッチを置くというだけのことも、これだけのことを同時に意識しなければ行えない。
しかし実際は、これらのことの一つ一つが「意識」されているわけではない。もっと大づかみに感覚的(総合的)に把握されている。しかし、その時々の必要に応じて、これらのどれか一つが特にはっきり意識されることもあるだろう。しかしその時、それが「意識」されることで、それ意外の事柄が無頓着になってしまっては、画面が台無しになってしまう。だから、何か一つのことが特に意識される時は、それを意識することを通じて、それ意外の事柄も同時にコントロールされるようなやり方で、意識される必要がある。(だから制作する時は、「ストレートを待ちながら、同時にスライダーにも対応出来るようにする」みたいな、複雑な意識のされ方が必要なのだ。)
●例えば、コンテを使って人体のクロッキーをする時、ぼくは何をしているのか。まず、画用紙とコンテが触れ合っている点の感触(コンテの柔らかさ、神の表面の凹凸)を意識している。そして、線をひくための自分の身体の動き方や力の入れ方を意識している。勿論、描かれる対象であるモデルの動きや表情を意識している。そして、画面のなかでの線のコンポジションも意識している。実際に線をひいているその時に、その線そのものと、モデルと、自分の身体の動きと、今ひいている線と既にひかれた別の線との関係とを、全て同時に意識しなければ描けないのだが(つまり、人体の構造をまず大づかみに捉えて、それから改めて生きた線をひきましょう、というのではダメなのだ)、しかし実際に「意識」として焦点化されているのはそれらのうちのせいぜい一つか二つでしかないだろう。そしてその焦点は、線をひきつつ次々と移り行く。しかし、次々と移り行きつつも、どの時点でも全てが意識されている(というか、意識されなくても制御されている)のでなくてはダメなのだ。