A-thingsで、岡崎乾二郎展

●吉祥寺のA-thingsで、岡崎乾二郎展。岡崎乾二郎という作家はとてもクリアで頭がよく、だからこそ高度に防衛的・抑制的な側面があるように思われる。そのような抑制されたクールな手触りが岡崎作品の特徴の一つでもあるのだが、しかしその防衛が時々ふっと緩くなる瞬間がある。そしてそれがとても魅力的なのだ。2001年のカナダ大使館で展示されたドローイング郡(http://www.kojinkaratani.com/criticalspace/old/special/furuya/011030.html)がそうだったし、今回の0号の作品群もまた、そういうもののように思える。普段の岡崎作品には、「絵画的なもの」に似てしまうことへの強い警戒があるように思うのだが、この展示の作品群は、何かに似てしまうこと、どこかで観たような感触を作品がもってしまうことへの警戒心は後退して、もっと素朴な。絵の具を塗ることの官能性が前に出ているように思われる。しかし、一見「どこかで観たような感じ」でありながらも、既に知っている何ものかとは微妙に違うのだ。そこがとても面白い。これらの作品は、普通に「絵を描く」というのとは、かなり違った感じで絵の具が塗られているから「微妙に違う」のだと思う。一見無邪気に「絵画と戯れている」ようにみえながら、重要な部分で(既にあるものとしての)「絵画」に頼っていないのだ。ギャラリーの広川さんが「パンにバターを塗ったような作品」と言っていたのが、これらの作品の魅力のとても的確な表現であるように思った。
●去年、ゆーじん画廊で0号の作品(確か二点)を観た時は、なんでこの小ささで、こんなことが成り立つのか、いくら観ても分らなかったのだが、今回、多くの作品を観て、その秘密が少し分ったように思った。サイズがきわめて小さいため、そのフレーム内部で作品として完結させようとすると、どうしてもせせこましくなってしまうか、大きな作品のミニチュアのようになってしまう。しかし、大きな作品の「部分」のようになってしまっては、作品としての自律性がなく、退屈なものになってしまう。だから、全体でもなく、部分でもないような状態をつくれば、0号でも充分に広がりと複雑さをもった作品になるのだ。全体でもなく、部分でもない状態と言っただけでは、何も言ったことにはならないけど、それは何かと何かとの隙間というか、何かから何かへと移り行く途中というか、そういう状態のことだ。それは、色彩としても完結(して結像)せず、筆触としても完結せず、質感としても完結せず、形態や動きとしても完結せず、絵の具が連想させる「別のもの」の感じ(例えば食べ物=味だとか、手触りだとか)としても完結せず、それを「塗る」時の身体の感覚(の想起)としても完結せず、常にそれらの間を、作品を観る者の感覚が刺激されつつ移動してゆき、その移り行く途中の状態として、作品がたちあがってくる、ということなのだ。0号の画面という、きわめて小さな面積の広がりが、決してせせこましくならないのは、作品が時間として出現するからなのだろう。しかしそれは、必ずしも実際に時間をかけて観るということだけではなく、パッと観た瞬間から、時間の発生が予感されるということでもあるのだ。
●モネの展覧会に同時に展示してある現代美術の作品を観て、モネに比べて現代美術は何て貧しいのだ、とか言う人がいる。それは確かに一面では正しいのだが(実際、大したことのない作品も多いし)、しかしそのような発言は(ぼくはあまり「美術史」がどうしたとか言いたくないのだけど)、あまりに歴史的な必然性を無視した(ある時期の美術が「貧しい」ことには、それを決して避けることの出来ない必然性があったのだ)発言のように思われる。(まあ、もともと抱き合わせ商法みたいな展示のしかたが良くないのだけど。)だけと、そういうことを言う人も、岡崎乾二郎を観れば、現代美術が、モネよりもずっと複雑で難しいことをやりつつも、モネと同等なくらいの「豊かさ」を得られていることが理解出来ると思う。でも、その「豊かさ」は、貧しさを通り抜けることによってしか得られないものなのだということが、忘れられては困るのだ。(貧しさを避けて通った人の「豊かさ」など、退屈な装飾に過ぎないだろう。)