『生き延びるためのラカン』(斉藤環)を読んだ

●『生き延びるためのラカン』(斉藤環)を読んだ。なるほど、今までラカン入門みたいな本を書いた人は、なぜこのように書けなかったのか、というくらい分り易い。精神分析にアレルギーのある人には、とても良い入り口になるのではないか。
●科学者はおおむね精神分析には否定的で、あんなものはカルトに過ぎない、みたいに言う。一方、精神分析を好む人は、科学的な成果を軽くみる傾向がある。この噛み合わなさの原因はどこにあるのだろうか。
例えば斉藤環は、次のように書く。
《まず忘れてはならないことは、人間のあらゆる体験において、ほとんど常に言葉が先行している、ということ。僕たちは自分の周囲を見渡して、部屋の中のパソコンだの机だのテレビだの本棚だのがあるということを瞬時に認める。こういうことが可能なのも、認識に先立って僕たちが「パソコン」「机」「テレビ」「本棚」という言葉を知っているからこそなんだ。(略)なぜなら、僕たちの周囲に広がる世界の中で、こういった個々のアイテムを分離して認める場合言葉の助けが必要となるからだ。たとえば机と、机の上の本とを区別して認識すること、これを「分節」する能力、という。もし分節することができなかったら、事態はものすごく混乱するだろう。なぜなら、机そのものと、本が乗っかった机とを、僕たちは全然別の物体として認識してしまうかもしれないからだ。》(P48〜49)
構造主義とかフーコーとかを普通に知っているインテリは、こういうことを抵抗なく受け入れがちだ。しかし。これって本当にそうなのか。認知科学による研究は、少なくともこのようなに認識に疑問を投げかけるのに充分なものがあるだろう。例えば、机とテーブルとちゃぶ台との違いを分節するには、確かに言葉というソフトがインストールされている必要があるだろう。しかし、机の上に本が置いてある時、机と本とは別のものであり、本は机と切り離して持ち運び出来るものだ、という認識は、身体と世界との道具的な関連のなかで、言語という媒介なしで獲得可能ではないか。言語を獲得する前の赤ん坊が、机とその上に置かれたものとの区別がつかないなどということはあり得ないだろう。勿論、人は、言語を受け入れて「もの」を殺戮して以降、常に世界との隠喩的な関連のなかで生きていることは確かだろう。それはつまり、「もの」を変化させるのではなく、「言葉」を変化させることで「もの(世界)」を変化させることが出来るかのような、神話的(隠喩的)な思考を人にもたらす。(自分では「母の不在」をコントロールできない子供が、自分でもコントロール出来る糸巻きの「在-不在」へとそれを隠喩的に変換させて、それをコントロールすることで、世界への能動的働きかけの「感覚(錯覚)」を得る。勿論この能動性は、隠喩としての能動性でしかないのだが。)ここではまさに、斉藤環が書くように、象徴界は世界を解釈するプログラムとして作動している。しかし、人間が生物的な意味で生得的にもつ認識装置(身体的な組成)というものが先にあり、言語もまたそれによって可能になっていること、生物学的(遺伝子的)な基本設定としてある認識装置は、言語というプログラムそのものを可能にするものとして、言語と同時に(常にその裏側で)作動しているとみるのが自然なのではないだろうか。一旦言語を受け入れた以上、生得的な認識装置も、常に言語の影響を受けていることは確かだと思うが、生得的なもの(基底としてはたらくもの)がすべて完璧に壊れているというするのは無理があるのではないか。それでは、我々は『マトリックス』の世界とまったく同じような世界に生きていることになってしまう。
(例えば、ルネサンスの時期に開発された「遠近法」は、人間が生得的にもつ時間・空間の認識装置と多くの部分が重なっていたからこそ、制度として今でも強固なのであって、それは決して恣意的な制度(象徴形式)でも、他の制度と簡単に交換可能なものではないだろう。あるいはまた別の話。絵の具のチューブに書かれた色の名前に頼らずに色を使うことが出来なければ、それは良い画家ではない。何故なら、同じ名前でもメーカーによって、時にはチューブによって、微妙に色が違うからだ。さらに、混色によってより複雑に色彩を制御しようとする時、その微妙な色の違いは決して名付けられるものでも、名前を貼り付けることによって管理できるものでもない。赤に白を混ぜたらピンクになる、といった粗い把握では、絵は描けない。)
斉藤環は、まるで象徴界のみが、我々と世界とを繋ぐ(というか、世界を秩序立てて組み立て得る)唯一のプログラムであるかのような書き方をしているように読めるのだが、これはいくら何でも無理があるように思われる。言葉とは常に他者としてあり、その他者を(自分自身であるかのように)受け入れることによってのみ、人間は生きることが出来る。だから、「私」が、「私がそこにいる」と思う場所には、決して「私」はいない。そのような認識が、精神分析がもたらした最も重要なものであることは間違いないように思われる。しかし、象徴界という側面だけが強調される時、精神分析はたんに俗流構造主義のようなものになってしまうのではないだろうか。(心理-現象から構造へ、みたいなスローガンはバカげている。)
現在、精神分析的な知をかかげる人の多くは、世界のベタな想像界化(動物化)に対する抵抗として、なにかしらの超越性(メタレベル)を可能にするために、象徴界を、父の否を、言い立てようとしているように見える。(それは、ラカンのカント化であるようにみえる。)これは、ポストモダンに対してモダンを立てるのと同様の「政治的」な立場としてあると思われる。ぼく自身、そのような立場そのものには賛同しつつも、しかし、フロイトラカンの探求は、そのような政治的な文脈に縮減されるべきものではない、もっと大きな広がりと柔軟性のあるものだと思われるのだ。(少なくとも、フロイトラカンは、科学的な成果についての、開かれた視野をもっていたように思う。)