綿矢りさ『夢を与える』

綿矢りさ『夢を与える』(「文藝」2006・冬)。おそらく小説家にとって、長く書くということのプレッシャーというか、ある長さをもたせられるかどうかという不安は相当なものがあるのだろうなあと思った。この小説は、その、長さをもたせるために採用された様々な素材や仕掛けに振り回されてしまって、振り回させているうちに何を書きたかったか、何を書くべきだったかを見失ってしまったのではないかと思えた。別のいい方をすれば、書きたいことがいろいろあるという感じは分るのだけど、それを今、どの程度書けるのかを、あるいはどうすればそれが書けるのかを、十分に吟味せずに過剰に盛り込んでしまった、と言えばいいか。(しかし、書きたいことがたくさんあってそれが詰め込まれているという感触は確実にある。)何やら妙に不穏な空気とともにはじまって、一体この小説はどこへ向かっているのだろうという不安定な感じに惹かれるようにしばらく読み続けると、ああ、これは綿谷りさの小説なのだなあ、と思えるようになってくる(主人公の中学時代)のだが(つまりそこまでは面白いのだが)、それが、主人公が芸能人としてブレイクしだすと、話は急速に平板になってしまって、仕事が忙しくなってゆく過程の描写とかが、どんどん退屈になってゆく。芸能人としての仕事の話とか、そこでの人間関係の話とか、忙しさに巻き込まれる主人公の心理状態とか、これが本当に綿谷りさの小説なのかと疑いたくなるほど冴えていない。ここを描かないと後に出て来るダンサーの男の子との関係が描けないから、段取りとして必要だからこなしているという風にみえてしまう。いや、まったく面白くないわけではなくて、芥川賞を受賞した後で作家本人が巻き込まれたであろういろいろなことを考えあわせつつ読めば、興味深かったりはするのだけど(つまりそういうことも書き込みたかったから主人公を芸能人として設定したのだと推測しつつ読んだのだが)、やはりアイドル(芸能界)の話という設定の「強さ」の方が出てしまって、そこに引っ張られすぎているように思う。で、結局最後まで、設定の強さに引きずられてバタバタしてしまって、そのバタバタを抑えるために過剰に「小説」っぽい仕掛けを張り巡らせて、結果、すごく薄っぺらな話になってしまっているように思った。
(ラストシーンも、いかにも小説のラストシーンみたいで、ここでこんな「気の利いた一言」なんていらないでしょう、と突っ込みたくなった。)
●でも、中学時代の「多摩」という名前の男の子との関係とかすごく良いし(「梅雨の日の学校の手すりは半魚人のにおい」)、中学時代の部分は全体的にとても好きだ。(主人公の孤独な感触とか。)後になって出て来る、ダンサーの男の子との「色ボケ」した関係は、主人公の側の気持ちの描写は面白いけど、相手の男の子の方のキャラクターにイマイチ厚みが足りないように思った。(ここでの主人公の「気持ち」の暴走をにドライブをかけるために、芸能人としての忙しい日々を描かなくてはならないというのも「頭」ではわかるのだけど。)それは、このダンサーの男の子は、「多摩」のようにはその人物自身に魅力があるのではなくて、男の子を輝いて「見せ」ているのは、主人公の生活への不満と性欲だと言えて、だとすれば、この男の子に「厚み」がないことこそがリアルなのかもしれない。「多摩」を好ましく思いつつも彼には「執着」しない主人公が、ダンサーには強い執着をみせるのは、一つには確実に肉体的な接触=性欲が介在している(この男の子の身体的な存在感はわりとリアルだ)からだけど、もう一方で、彼が実態ある存在としてではなく、自分の不満を埋めるため幻でもあるからで、だから、男の子の正体が結局最後まで知れないままでフェイドアウトする感じが納得できるのだろう。この小説には父や母との関係もかなり描き込まれているのだけど、全体を通しての印象としては、やはり男の子との関係こそが描きたかったのかなあ、と思った。男の子との関係とはつまり性欲や執着を介在させざるを得ない関係ということで、既に自らの性欲に自覚的になってしまった以上、「多摩」との関係のようなものは不可能になってしまった(それがつまり「失われてしまったもの」ということなのだろうか)ということで、主人公がダンサーとの性交シーンが録画されたDVDを自らの意思で観るシーンは、それを自覚するシーンだということなのだろうか。
この小説は、主人公の生まれる前、主人公の母親になるはずの人物が、父親になるはずの人物の切り出す「別れ話」をいかに阻止するかというところからはじまっていて、つまり、父に執着する母の姿からはじまっていて、何故主人公の生まれる前のそういう話からはじまるのだろうと疑問に思いつつ読んでいると、それが徐々に理解されてくる。この小説では、父と娘、母と娘という関係も描かれるのだが、娘が母を通して「母-父」という男女の関係を「見る」という側面が強くあり、そこで、はじめ母の父への執着を理解できなかった(嫌悪していた)娘が、自らの経験を通じてそれを理解するようにもなる。あるいは、母-父の関係をみることで、自らの気持ちや欲望を(自らの執着心の強さを)自覚できるようになる。母にとっては、娘の生まれる前の「別れ話」の時点で既に父を失っていて、その後の父との関係は(母にとっては)平板なものとなっている。母にとって、その後の父との関係は「執着」がもたらしたものであり、父の存在は幻影でしかない。(それはあくまで「母-父」の関係において、ということで、父は父それ自身でちゃんと存在しているように描かれている。)同様に、娘がダンサーに執着することで、ダンサーは(娘にとって)幻影となってゆく。(幻影である、ということは、必ずしも多摩のようには魅力的な人物である必要はない、つまり、相手が実はどんな人物であるかはあまり関係がない、ということだ。相手には、彼女の「好み」を惹き付けるいくつかの記号があればよい。)はじめは、ちょっとした「好み」のタイプであった存在が、執着が働きだし、育ってゆくにつれて、幻影に向けて投影されてゆくものは大きくなってゆく。ダンサーは、クールで、受動的で、正体が知れない。つまり、無色で、空虚で、逃れてゆくような存在であることが、執着にさらに火をつける。
(しかし、この小説の「結論」のように示されること、多摩との関係のようなものは、自らの執着の強さ、そして執着に性欲がまとわりついていることが自覚されることによって「失われてしまった」というような認識には疑問がある。多摩との関係が執着に陥らなかったとすれば、それは、多摩という人物がそれを解体するような魅力を、実質を(すくなくとも中学時代は)もった人物だったからだと思う。ぼくは後半部分を読みながらずっと、「いつ多摩のうちに遊びに行くんだよ」と思っていた。作家は、高校生になった多摩を構想できなかったのかもしれないけど、せめてもう一度くらいは主人公と多摩が会うところがないと、この小説は終われないじゃん、と思う。たとえそれによって、「多摩との関係は失われてしまった」ということがよりはっきりしてしまったとしても。)
●この小説には和哉という人物が出て来る。主人公の高校のクラスメイトで、一度だけ主人公と二人で授業をサボって出掛ける。主人公にその気はないのだが、それ以降、和哉は頻繁に主人公にメールを送るようになり、誘いをかけるようになる。主人公がそれを無視すると、教室で主人公を「目が据わった」ような視線で見つめるようになる。ここまで書かれると、読者は当然、主人公と和哉との何らかのトラブル(ストーカーのように付きまとうとか)が描かれるのだと思う。しかしこの話はこれっきりで済んでしまって、和哉はこの後二度と登場しない。ネタ振りだけでオチがないまま放置されているかのようだ。でもそれは、それで全然OKというか、むしろその方がリアルで、現実には、何かが起こりそうな気配だけで、結局何も起こらないことはいくらでもある。むしろこの小説は、振ったネタを律儀に回収しようとし過ぎる傾向があって、それでガチャガチャと余計なところに引っ張られてしまって、書かなくてもよいところまで書かざるをえなくなっているように思う。これだけ長い小説なら、もっとだらしなく「書きっぱなし」みたいなところがあってよいのではないかと思った。