07/11/05

●『陽気で哀しい音楽に』(佐藤弘)。この本は、三日の講演の時、会場に来ていた作家本人から頂いた。
正直、最初の「秋」という章は、この作家の良い部分とあまり良くない部分とが半々くらいで、うーん、という感じだったのだけど、二つの目の「秋の終わりと、冬の始まり」という章がすごく良くて、引き込まれて、そのまま最後まで読んだ。二章めを読みながら、ああ、この作家はここで一皮剥けたんだなあ、と感じた。一皮剥けたなどという言い方は、上から目線で偉そうでちょっと感じが悪いかも知れないけど、自分の身近な人でも、テレビなどでしかみない芸能人やスボーツ選手でも、その人が一皮剥ける瞬間をみせられると単純にうれしくなる。それは自分のこととか他人のこととか関係なく、この世界のなかにあらわれた「良いこと」としてうれしく感じられるのだ。別にこの小説がもの凄い傑作だとは思わないけど、そのような意味でとても良くて、読めて良かったと思った。
この作家の長所でもある、のらりくらりとした調子は、最近の作品では手癖みたいになっているところがあって、ちょっと鼻につく感じもあったのだが、少なくとも二章め以降では、それは抑制されている。この小説は、この作家のいままでの作品のなかで一番普通で、シンプルなつくりで、お話としても、よくあるフリーター小説なのだけど、文体的な特徴にも、技巧的な捻りにも頼ることなく、普通に、登場人物と細部の魅力だけで勝負出来る力量がこの作家にあることを、この小説は示している。シンプルでありながら、お話の流れやテーマに収斂されることのない多様な細部の動きがあり、絡み合いがある。この小説の良さをどのように表現したら良いのかはむつかしい。読んでいて、ただ「いいなあ」と思ったり、可笑しくて笑ったり、身につまされて胸がいっぱいになったり、登場人物たちを「若いなあ」と思い、自分が既に二〇代からは遠く離れてしまったことを改めて感じたりする。(この作家の小説の読んでいつも思うのは、身体感覚にしても感情の動き方にしても、二〇代の作家にしか書けないような小説だ、ということだ。年期のはいった作家ならもっと上手く書くかもしれないけど、それは全く別ものになってしまう。その時の若さとは、別に「風俗的な新しさ」というようなことではない。)この作家の小説はいつも、男女の関係にちょっとした捻りによる「距離」を設定していて、それが小説を動かしてゆく動力のひとつにもなっていると思うのだが、時にそれがちょっと方法的な不自然さを感じさせてしまうこともあるのだけど、この小説での会田と早織との関係はすんなりと納得出来る感じだ。(中村という女の子との関係の描写もすごくいい。)
この小説には、嫌な奴が一人も出てこない。それを、この小説の狭さだと言う人もいるかもしれないけど、ぼくは、それこそが、この小説のもっとも美しいところなのではないかと思う。登場人物のすべてが、世界に対して(すくなくとも音楽に対しては)愚直なほど真面目に向かい合っている。オレの大切な小説のなかに、いい加減な奴なんか一人も出してやるもんか、という作家の強い気持ちが感じられる。もしこの小説が、三章めの「冬、十二月」で終わっていたとしたら、ちょっときれいにまとめ過ぎじゃないのか、イタリアの民謡で締めるのはズルいだろう、とか思ってしまうかもしれないけど、最後に「クリスマス」という短い章があることがすごくいいと思う。最後の主人公の台詞には感動して胸がいっぱいになった。