●一日中、用事をこなすことに費やす。でも、この仕事ももうすぐ終る。合間に、なんの気なしに『ジーザス・サン』(デニス・ジョンソン)を読み出す。半分くらいまで(六章めの「緊急」まで)。最初の章(「ヒッチハイク中の事故)を読んでいる時は「ふーん」という感じだったのだが、二章めの「二人の男」が滅茶苦茶面白くて、「えっ、なになに」という感じで引き込まれ、笑ってしまう。リンチの『ワイルド・アット・ハート』の前半みたいだ。車のなかで眠っていた大男は、まるで吉田戦車のマンガに出て来る力士みたいでもある。あと、五章めの「仕事」もすごく好きだ。この章はなぜか強くディックを想起させられた。《どういうふうにしてか俺は、ウェインが見ている、自分の女房と自分の家をめぐる夢みたいなものののなかにまぎれ込んだのだ》という一文があるせいだろうか。それだけでもないと思うが。この小説では、場面が文学的な意味を帯びてしまうより一瞬早く、あるいは、場面が登場人物の感傷に染まってしまうよりも一瞬早く、その次に起こる出来事の予想外のとんでもなさがそれを押し流してしまう。人は感傷を抱かないわけにはいかない。しかし、現実の出来事の理不尽な強さはそれを上回る。そういう動きが常に生じているところが面白いのだと思う。悲惨なんだけど、悲惨さよりも一瞬早く笑いが先にくる。笑いはなにも解決しないし救いもしないけど、とにかく笑える。でも、人は簡単に死んでしまう。それは現実なのだ。この小説は九十年代初頭に書かれたらしいけど(この小説の語りは事後的な想起だから、時間の順番がバラバラだ)、この小説を裏で支えているのはあきらかに七十年代初頭(六十年代末期)であるように思われる。それは、作家が48年生まれで、登場人物が二十歳前後くらいで、タイトルがヴェルヴェット・アンダーグラウンドからとられていることからも分かる。「この感じ」はアメリカのこの時代が背景にあってはじめてリアルであるように思われる。ディックとの繋がりも、そこらへんにあるのではないか。作家は、自分が生き残ることで「死んじゃった奴ら」について書く。決して、死んじゃった奴らに「代わって」ではなく、「ついて」だ。あいつらは既に死んじゃってるけど、オレの頭のなかで想起される度に、何度もまた繰り返し死ぬ。ディックが書いているのも、おそらくそういうことだ。