、岡崎乾二郎「ZERO THUMBNAIL」展と、それをめぐる対談

●吉祥寺のA-thingsで、岡崎乾二郎「ZERO THUMBNAIL」展、後期と、それをめぐる対談、「岡崎乾二郎をめぐって」(松浦寿夫×林道郎)。
●ぼくは、今回の岡崎乾二郎の小品のシリーズは、まるで軽業師の曲芸のような作品だと思う。曲芸は、座って静かに鑑賞するというより、見ている方もつい身体を動かしてしまう、という意味も含めて。それはとても遊戯性が強いもので、その遊戯性は、主にサイズの限定によって生まれるものだと思う。サイズによる「縛り」をキツくすることで、サイズやフレームを「乗り越える(はみ出す)」運動性そのものが、とてもわかりやすく顕在化されており、その運動の見事な有り様のみがあらわにみえてくる。機知と茶目っ気と高度な身体技能によって成立していて、しかしその高度な有り様は、人に感心を強いたり、それによって圧倒しようという感じではなく、人に思わず笑みを溢れさせ、自らも運動することを誘うような軽やかなものとしてある。この軽やかさは、基本的に見事な「技」によって可能になっていると思うのだが、「技」そのものを追求し、磨きをかけるといった求道的な気配はいっさいみせていない。軽業師の技は、軽々とやってのけることによって意味をもつ。だからこのシリーズは、長い探求の積み重ねのなかで、ある時、ふっと出来るようになったものの集積、というようなものだと思う。(だからそれは?軽いとともに、非常に複雑な「含み」をもつ。)
●松浦氏と林氏との対談で面白かったのは、この二人の話に、微妙にズレが生じる感じだった。話が噛み合っていないわけではないし、意見が対立しているというわけでもない。むしろかなり近い立場で、互いの言葉を承認し合いつつ、話を発展させてゆくのだけど、しかし立場が「近い」からこそなおさら、そこにある微妙な(しかし消しがたい)違いが際立ってみえてくるような対談だった。(例えば、「翻訳」や「関数」という言葉によって比喩されるものが、その話題を持ち出した林氏から松浦氏へと話し手が移ることで、微妙に位置をズラされてゆく。)そしてその違いとは、たんに意見や立場の違いではなく、この二人の批評家(松浦氏は画家でもあるが)の、作品(世界)に触れる感触の違いというか、考える時の「筆触」の違いのようなものがあらわれたものだと思われる。それは、意見や立場のように、簡単に代入(変換)可能なものではない、もっとその人自身に深く刻まれたものであるように思われる。そして、そのような微妙な「違い」を引き出さずにはおかないような含みの豊かさを、岡崎氏の作品はもっているのだと思われる。
今回の岡崎氏の小品シリーズは、岡崎氏の作品にいつもある、(それ自体、罠であると同時に誘惑の身振りでもある)高度に防衛的な構えが撤廃されているという感じがある。きわめて素朴に「きれいな絵」として観ることが出来る。勿論、岡崎氏の作品はいつもきわめて美しいのだが、「簡単にきれいって言うなよ」みたいな但し書きが添付されている感じがあるのだ。今回の小品群は、そのような但し書きがとれて、ちょっとびっくりするほどの無防備な無邪気ささえ感じられる。(ただ、0号というごく小さなサイズで作品を成り立たせるために、筆触とフレームと地との関係において、一枚一枚それぞれに異なる、反則すれすれというようなアクロバティックな「技」が使われているのだけど、その「技」そのものが前面に出て来ることがなく、あるいは「技」が言い訳となることなく、「技」が純粋に「技」であることによって生まれる無邪気な遊戯牲と茶目っ気のようなものこそが前面に出ていて、「え、それをやっちゃうの」みたいな意外性と楽しさによって作品が成り立っているのだった。その意味で、サーカス的、軽業的な作品と言えると思う。そして、今までこのような作品がまったくなかったわけではなくて、岡崎氏はそのキャリアのなかで時々、このようなタイプの作品をふっと生み出すことがある。)そして、そのような傾向に対し林氏はとても肯定的で、松浦氏は、それに関する評価はちょっと保留しておきたいというニュアンスが感じられた。(それは否定的というのではなく、林氏の肯定的発言に対して、それにはのらずに、ちょっとはぐらかす、みたいな身振りとしてあった。これはたんに、作家と親しい友人であることからのテレなのかもしれないが。)
松浦氏は、自分たち(松浦氏と岡崎氏)の世代が、日本で作品をつくってゆく時に二重の敵を想定しなければならなかった、と言っていた。一方の敵は、知的に仕組まれたものを「読み解く」ことが作品の経験だとするような「絵解き」的な傾向(これは、そいうい傾向の「作品」であるとともに、そのような「言説」でもあろう)。もう一方の敵は、まったくベタで素朴な、私の個性、私の特異性、私の気持ち、そして根性....、みたいな、知的な枠組みそのものを認めない(というか、たんに頭の悪い)アート-表現信仰みたいな傾向。(この二つの傾向は現代においてもなお、というか、よりいっそう、支配的であるように思われる。)岡崎氏の作品にみられる高度な防衛は、作家自身の資質であると同時に、そのような「敵」に対する構えでもあるだろう。だとすれば、防衛の構えが消えるということは、敵に対する緊張感が消えるということでもあるのではないか、という気持ちが、もしかしたら松浦氏にはあるのかもしれない。敵に対する緊張感が後退することで、遊戯的自由さが獲得される、と。(これは、松浦氏がこのような発言をしたということではなく、ぼくが勝手にそのようなニュアンスを感じたという話だ。)
●話のなかでひとつ、ちょっとひっかかったことがあった。それは、絵画を言語のアナロジーとして語ることの限界を示しているとも思え、ぼく自身の関心とも重なるので、書いておく(あげ足取りのような言い方になってしまうが、そのような意図はない。)。松浦氏は、言語学のパラディグマティックな構造の話に触れ、色彩においても、百の色彩を使える画家が選んだ一つの色と、三つの色彩しか使えない画家が選んだ一つの色とでは、例えモノクロームの作品としてあったとしても、その色に含まれる豊かさが違う、という話をしていた。(つまり、選択された一つの色彩は、潜在的な九十九の色彩と響き合う関係によって「豊か」である、と。)
しかし、一つの構造体としての絵画における、色彩のパラディグマティックな有り様は、言語のそれとは根本的に異なるとぼくは思う。それは言語のようには示差的な構造をもたないと思われる。色彩においては、今、見えているその色の支配力が極めて強い。例えば、「ソクラテスは人間だ」という文中の「人間」という語が、「動物」や「機械」などという語との(潜在的な)示差的関係によって意味の輪郭を確定するのとはことなり、今見ている赤は、つねに「その赤」であり、直接的、現実的に視神経を興奮させるだろう。それは、人間という語から意味が剥奪され、「に・ん・げ・ん」という音(振動)として経験される場合に近いと思われる。(だから我々は「色」そのものを記憶することは困難であり、目を外したとたんに印象は曖昧になり、色から受けた感情や強度に「翻訳」して、それを記憶するしかない。人は色の記憶を語の記憶のようには保持できない。逆に言えば、だからこそ色彩は認知から切り離された感覚(強度)として感情を表現することも出来る。これが「形」となると、ちょっと違うのだが。)ある特定の色彩のもつ潜在的なものとの関係は、ある特定の単語のもつ潜在的なものとの関係とは、その有り様が異なる。このような事実が、絵画を観る、あるいは描くという経験や行為の位置づけを(それを「一つの経験」として確定することを)困難にするだろう。
この赤を今見ているということと、そこから目を外した後、その赤を確かにかつて見たという記憶とを、どのように関係づけることが出来るのか。あるいは、この赤を見ることで、かつて見た別の赤が想起されるというのは、どういう出来事なのか(その「赤い」イチゴの味まで想起されるとしたら、どうなのか)。この絵を観ること(一枚の絵として経験すること)と、(その絵の一部分である)この赤を観ること(今、赤を見ていること、赤によって視神経が興奮していること)とを、どう関係づけることが出来るのか。この赤を見る(見ている)という経験と、その隣りに置かれた黄色を見ているという経験と、それらの色を浮かび上がらせている地の白を見るという経験とを、どのように関係づける(統合する)ことが出来るのか(あるいは、出来ないのか)。あるいは、画廊まで行く間に見た木々の緑の記憶と(その時感じていた匂いや風と、その時踏みしめていた土の感触と)、今見ているこの絵の赤とは、どのように混じり合うのだろうか。絵を観ること、絵を描くことによって連れ出される、このような経験の不確定な有り様について考える時に、言語構造とのアナロジーはあまりにも不十分であるようにぼくには思われる。
そもそも、絵画においての色彩の豊かさは、三つの色しか使えない画家よりも、百の色が使える画家の方が「豊かだ」ということではない。(色彩は単語とは違って、中間のトーンを無限に分割出来るので、少ない色数でも充分に豊かなのだ。あるいは、白と黒との関係だけでも、充分に「色彩」として豊かなものにも成り得ると思う。)岡崎乾二郎という画家が、その類い稀なセンスによって、とても広い幅の色彩やテクスチャーを自在に使えるということは、勿論凄いことだし、驚くべきことなのだが、それは同時に、狭い幅のなかだけでは充分に豊かな表情を作ることが出来ないということでもある。(正直、そのあまりの豊かさに魅了されつつも、絵を描くのにこんなにも多様なバリエーションが本当に必要なのだろうか、と疑問に思う事もないわけではない。)当たり前のことだが、それはどっちが偉いとかいうことではない。