●犬や猫にとって遊戯とは、補食行動に必要な身体制御を獲得するための練習である。しかし、人に飼われ、人と共に生活している飼い犬や飼い猫は、基本的に補食行動をとる必要がない。補食行動のためという目的を失ってもなお行われる遊戯は、犬や猫の「主体」においてどのような意味をもち、どのような経験を可能にしているのだろうか。(人間においても、補食行動はほぼ必要なくなっているが、しかしそのかわりに生きるために経済活動が強いられ、遊戯におけるの人間関係の構築は、経済的行動を行う時の練習という側面が強く、だから人間の遊戯は、飼い犬や飼い猫の遊戯ほどには「目的」から切り離され、解き放たれてはいないように思われる。)
ウィニコットは、遊戯は母親(の視線)を必要とする、と言った。飼い犬や飼い猫の遊戯もまた、飼い主の(愛情に満ちた)視線を必要とする限りにおいて、充分に目的から解放たれたものとは言えないかもしれない。遊戯によって得られる自由な感触とはやはり、危険な現実や他者をあらかじめ排除し、遮断してくれる(そして、遊戯的行為を「肯定的に受け入れてくれる」)、母親的な視線の保護の内部でのみ可能となるものなのだろうか。それとも、目的から切り離された遊戯的自由の内実が、保護的な視線を越え出る充実を獲得し、別の新たな次元を獲得することがあり得るのだろうか。例え、飼い犬や飼い猫の遊戯が、飼い主による保護を絶対的な条件としていたとしても、そこで犬や猫(の「主体」や「身体」)に生じている出来事が、決して飼い主に依存するものではないものに、そして、犬や猫の本能を越え出たなにものかになりえる可能性は、充分にあるのではないだろうか。芸術の条件とは、結局そういうことなのではないだろうか。
岡崎乾二郎の、きわめて、そしてあまりにも遊戯的な開放感にあふれる小品シリーズを観て、以上のようなことを考えた。これらの作品における遊戯的な自由さが、他者や現実(事物)をあらかじめ排除することによって成り立つものなのか、そうではないのか、あるいは、そうであっては本当にいけないのか、については、簡単には結論を出せない。