『サイコ』(ヒッチコック)

●少し前に、ゴダールの『映画史』を、DVDの索引機能なども思い切り参照しながら、かなりしつこく観ていたのだけど、そうすると、嫌というほど繰り返し、『サイコ』(ヒッチコック)のテーマ曲を聴かされることになる。(『映画史』に、これほど頻繁にこの曲が使われているのは、勿論、ゴダールヒッチコックに対するリスペクトがあるからだろうけど、それだけではなくて、とても「使い易い」曲だからだろうと思う。)それで気になって、随分と久しぶりに『サイコ』を観てみた。
改めて観ると、この映画の視覚的な過剰性に驚く。こんなにギラギラした画面の映画だっただろうか。
でも、一番印象にのこったのは、探偵が殺されるシーンで、探偵が階段を昇ってゆくと、昇り切ったところのすぐ脇に扉があって、そこから殺人者がすっと出て来て探偵を刃物で刺すところが俯瞰のワンカットで捉えられているのだけど、この時、殺人者が扉から現れるタイミングと、扉から階段までのほんの数歩の距離を歩くスピードが素晴らしくて、ああ、こういうのが映画なのだなあ、と思う。この、スッ、スッ、スッ、という感じの数歩の足取りが、何というのかもの凄く素っ気なくて即物的で(だからこそ凄いリアルで)、ふいに、とか、あっという間に、という程ははやくなくて、えっ、今、何が起こってるの?、と、呆然とするだけの僅かな時間の余裕があり、しかし、何が起こりつつあるのかを冷静に確認できるほどに遅くはなく、だからやはり「いきなり」刺されてしまうのだが、この、ほんの短い遅延が挟まれることで、探偵が「刺された」ということを認識した後に(探偵が階段を落下しているショットを観ながら)、遡行的にある余韻がひろがって、この遅延がじわっと効いてくる感じなのだった。この、殺人者の数歩の歩みの呼吸は、編集によってつくられるものではなく、一つのカットのなかで刻まれていて、しかしその呼吸の素晴らしさは、そのショットを観ている現在に作用するのではなく、一泊遅れて、次のショットを観ている時に遡行的に作用する、ということろが、映画の時間の複雑で面白いところだ。(一部で)有名な『エクソシスト3』の、病院の廊下にいきなり大きなハサミをもった人物があらわれるシーンは、おそらくこのシーンから着想されたのではないかと思うけど、やはりヒッチコックの方が数段上だと思った。『エクソシスト3』では、その「いきなり」な感じがリアルなのだが、『サイコ』では、「いきなり」であると同時に、「いきなりであることの取り返しのつかなさの余韻」が遡行的に作用する。(「いきなり刺された」というショックそのものよりも、その、余韻の方こそが、トラウマとして滞留してしまうように思う。)そしてそれを生むのが、殺人者の数歩の足取りがつくるわずかな遅延(隙間)なのだ。