東京都現代美術館に、岡崎乾二郎特集展示を観に行った。最終日ぎりぎりでも観られてよかった。「釉彩陶磁床」は本当にすばらしかった。うわ、もう、なんか、もう、これ、もう、なに、みたいな言葉しか出てこない。
常設展の入り口でもらったチラシには、「釉薬による彩色は、色彩混合に困難を伴うため、レイヤー表現が不可能であり、形態の境界を物質的に分節しコントロールしなければなりません」と書いてあってさらに驚く。つまり、ストロークによる手業でつくられたようにみえるものは、「あたかも手業によってつくられたかのように」意図的に計算され、配置されているということだ。実際に表面を触ってみると、確かに、彩色された部分が重なっているところがない。太い黄土色のストロークがぶわっと置かれた上に、細長い緑色のストロークが横断的に重ねられるというのではなく、あたかもそのようにして描かれたかのように、二つに分割された黄土色の形態と、その真ん中にはさまる緑色の形態が、あらかじめ計算されて配置されている、というようなことなのだろう。
しかし考えてみれば、そのこと自体は、ペインティングの作品でもずっとやられたきたことであり(あたかも、絵の具が偶然はねて付着したかのような形態さえ、意図的につけられていたりする)、「一見何々に見えて、実は何々なのだ」というトリッキーな媒介性というか、間に不可視のアルゴリズムが差し挟まれている有り様は、この作家のひとつの特徴とも言えると思う。重要なのはそのトリックそのものではなく、間に不可視のアルゴリズムが挟まることによる遠隔操作性みたいなものなのだろう。
そもそもアクリル絵の具は、濡れている時と乾燥した後とでは、色彩だけでなく、光沢や量感まで著しく変化するから、その時間による変化をあらかじめ想定していなければ、アクリル絵の具で制作することは出来ない。今、見えているもの、今、手元にあるものを、直接的に操作するのではなく、その先の、もっと遠くにあるものを、その不確定な予測の出来ない部分まで含めて操作する、というのは、制作する時には当たり前の事態で(というかむしろ、時間のなかで生きているというのはそういうことで)、この作家は、そこにある遠隔操作性を、不可視のアルゴリズムを媒介することで、意識的にさらに広め、さらに遠くのものを操作するように制作するのではないかと勝手に推測する。それによって制作の技術を変化させ、制作の時間を変化させ、作品が含む時間を変化させ、つまり生きている時間そのもの変化に働きかけようとするのではないだろうか。そして、操作する対象を遠くへ(外へ)と広げることは、そのまま、その反射として、それを操作する者の、頭の表面だけではなく、頭の深部までをも用いた(内への)操作を必然的に要求することになるはずだろう(意識出来ないものまでを強引に引っ張り出す)。「釉薬による彩色」は、アクリル絵の具以上に「遠く(深く)」へ「外へ(内へ)」と、その遠隔操作性を押し広げる役割をもつのではないだろうか。
●一枚としても完結した作品と言えるタイルが、12×12枚並べられ、それが会場の二カ所に設置される。一方は、白い地のタイルに青系の色彩で彩色され、もう一方は青い地のタイルに白に近いグレーで彩色され、その反転的な有り様を、黄土色や、グリーン系のグレーがつなぎ、媒介している。
一枚としても完結しているように見えるタイルが配置されているのだが、この配置はおそらくランダムなものではないように感じられる。その理由は、隣り合ったタイルの連続性(擬似的なストロークによる擬似的な連続性)がもたされているように見えるからだ(特に、青い地の方のタイルの配列にそれが感じられた)。一見、装飾的な図柄のランダムな配置のようにみえて、これは、このように配置されなければならないのだ、という必然性がもたされているように感じた。たまたま目にした一枚、あるいはある領域(4枚でも6枚でも)がそのまま一つの全体であるようであり、しかし同時に12×12枚の全体は決してランダムな配置ではなくて、そのような配置としてしかあり得ないようなある秩序に基づいている。とはいえ、それは四方から見られ、その上を自由に歩くことも可能なのだから、見られる順番(継起)や方向は自由であり、見る側の経験としては、その都度ランダムに開かれている。本当にそうかどうかは怪しいけど、そのように感じられる。この作品から感じられる圧倒的な複雑さの感触は、そのようなところから来ているのかもしれない。そしてこの複雑さの感触は、一方で碁盤の目のようにきっちりと正方形のフレームが並べられていることに助けられて、はじめて感受可能となるようにも思われた。
●とにかく、一回くらい観ただけではまったく解析不可能で、ただ、うわ、もう、なんか、もう、これ、もう、なに、と圧倒され、うろたえるしかない。
●展示室を出て歩いていると、たまたま目が合った人に、「あっ」みたいな感じで会釈されたので、こちらも反射的に、「あっ」という感じで会釈したのだが、その、どこかで見たことがあるようなないような顔は、一体誰だったのだろうかと思い出そうとしていると、その人もまたこちらを見て、あの人は一体誰だっただろうかと考えているかのような顔をしていた。