小島信夫『馬』

●ずっと書いていた原稿をなんとか書き終えることが出来たので、ちょっとホッとして、小島信夫『馬』を読み始めた。『馬』は『抱擁家族』の原型とも言える小説らしいと知っていて、ぼくにとって『抱擁家族』はあまりに強烈過ぎて、読むのがとても辛くて、読み始めては途中で挫折するというのを何度も繰り返して、何度目かのトライでようやく最後まで読めたというような小説で、読んでいる間じゅう、本がそこらに置いてあるのを目にする度に、ああ「あれ」があると思って気が重くなり、読みながら残りのページの厚みを見ては、まだこんなに残っている、と、気が重くなる、という風にして読んでいた小説なので、『馬』もまた、そうそうは気軽に読み始めることが出来なかったのだった。ある程度の年齢を過ぎてからの作品はそれほどでもないのだけど、中年期というか壮年期の小島信夫の小説は強烈な「跳ね返す力」みたいなものがあって、その中に分け入るにはこちらにも相当の力が必要で、受け付けられない時にはまったく受付られない感じになるのだけど、『抱擁家族』には特にそれが強く漲っているように思える。しかしそれは、この作品の側の問題というよりも、ぼく自身の側の問題という側面が強いのだろう。ぼくが無意識のうちに触れないようにしていること、避けて通ろうとしていることが濃厚に含まれていて、そこに直接的にズバズバと切り込んで来るような小説なのだろう。(それを読んでいる間、『抱擁家族』という「本」は、ほとんど呪物のようなものとしてあった。)
しかし『馬』は意外にすんなりと入り込めて、するすると読み進めることの出来る、普通に「面白く」読める小説だった。こういうところが村上春樹とかにも評価されたりするところなのかも知れない。読み始めた途端にするっとその世界に入り込んでいて、知らないうちにその世界に取り囲まれて、その世界の論理を受け入れざるをえないような形で、自動的にどんどん先へと転がされてゆく感じだった。とはいえ、一行目からただならぬ不穏な空気に取り囲まれ、小島信夫特有の、受動的で強迫的なエロが支配する世界で引きずり回されることになる。ただ、『抱擁家族』ではその世界が、それを読んでいる者にも全く余裕を与えないような、肌にべったりと貼り付いてくるような距離の無さで迫って来るのに対して、『馬』は、読んでいるぼくはやや距離をもってその世界の傍らにいるような余裕がちょっとあって(それは「笑える」ということなのかもしれない)、その分読むのが気が楽だったのかもしれない。
例えばこの小説では、電車や病室の窓から家を見ているといった「距離」があったり、一階に馬がいて、二階に自分の部屋がある、みたいな「位置関係」がはっきりしていたりする。「位置関係」が常にはっきりしていない『抱擁家族』に比べると、これはぼくにとって少し「楽」なことだ。とはいえ、基本的に小島信夫の小説は「空間的」なものではないのだと思う。空間的には整理できないと言うか。