(もうちょっと『阿部和重対談集』について)
●『グランドフィナーレ』には阿部和重の小説としては画期的だと思われる沢見とIとがホテルの一室で対話するとても美しいシーンがある。しかし、今までの阿部氏の小説にはあまりこのような「それ自体として美しいシーン」というのはなくて、それを描かないことで(対談のなかで保坂和志が言っているように)作家が「悪人」として、小説の外に立って、登場人物を容赦なく操作し、翻弄することが出来ていた(つまり、登場人物への半端な思い入れがなく、徹底して、関係や関係の推移を操作することで小説が出来ていた)のではないかという感じがあり、しかし、こんな「いいシーン」を(そしてこんな小説を)書いてしまった以上、そうそう今までのようにはいかなくなってしまうのではないか、という気もする。
●保坂和志との対談で、阿部氏は、『カンバセイションピース』のラスト近くの、語り手と綾子という女性が家のなかで二人だけになって噛み合ない会話を交わすシーンについて、その重要性について語っている。このシーンでの二人には明らかに性的な吸引力が働いていて、ここでこの小説は「不倫小説」に成り得たにも関わらず、あえてそこに踏み込まなかったことが素晴らしい、と。このシーンはこの小説のなかで最も重要な「事件」であり、サスペンスが漲るシーンであって、このシーンによってこの二人の関係ははっきりと変化した、と。保坂氏は、この二人の関係に性的なニュアンスが含まれることを認めつつも、そこまで言うと「フロイトの読み過ぎって、言われちゃうよ」とたしなめるのだが、阿部氏はさらに続ける。《ぼくの読み方だと、この『カンバセイションピース』という物語の中では、あそこが一番大きな変化が起こるエモーショナルな場面かもしれない。あの場面を読んで、あっ、やっている、ついに起きたって、僕はうれしかったんですよ。何かちょっとガッツポーズっていう感じがありましたね。》
そして、蓮實重彦との対談では、自身の『グランドフィナーレ』の、沢見とIとの場面について蓮實氏から、あのシーンの二人の関係はとても複雑で、最低だと言いつつ長い会話を交わし、ことによったら「寝て」しまうのではないかという緊張感もあり、しかしそうはならず、あなたは、そのようなこの二人の関係に「あこがれ」のようなものがあるのではないか、と問われて、あのような関係は素晴らしいと思う、いつかあのような二人の関係についてだけで長い小説を書きたいと思っている、と答えている。
ぼくにはこの二つの部分がきれいに対応しているようにみえた。つまり、阿部氏の小説としては今までみられなかったような沢見とIとの対話のシーンは、阿部氏が『カンバセイションピース』の語り手と綾子との関係に刺激を受けて生まれたものなのではないのか、ということだ。保坂氏の小説から阿部氏が読み取ったもの、(保坂氏からはたしなめられてはいるが)阿部氏が《何かちょっとガッツポーズっていう感じ》を得た、その「感じ」を、阿部氏は自作のなかで、自分なりになんとか「自分のもの」として組み立ててみたかったのではないだろうか、と、ぼくはこの二つの対談から感じたのだった。(阿部氏は、蓮實氏との対談で、『グランドフィナーレ』にはもともとIは登場しない予定だったと言っているが、Iが登場しない『グランドフィナーレ』は現在の形からは想像も出来ないだろう。)まあ、これはぼくの思い込みというか、妄想のような「読み」にすぎないのだけど。