07/10/26

●11月3日に中央大学で行われる保坂和志さんの講演会に、対談相手として出ることになっていて、その紹介記事がおとといの読売新聞に出ていた。(その掲載紙が今日届いた。)その見出しが「作家の保坂和志さん、在野の書評家と対談」となっていて、笑えた。この記事を書いた人は、短い見出しのなかで、ぼくのことを一般的な読者に向けてどう表現したらよいのかについて、けっこう苦労したのではないかと思った。
きわめて短い記事のなかで、有名な「作家の保坂和志さん」と対談する無名の相手のことを、一般的な読者にむけてわかりやすく説明しなきゃいけなくて、そのために必要なのは正確さではなく「通りの良い物語」なわけで、そこで、一言で説明されるぼくの社会的なあり様は、「在野の書評家」になるわけか、と。
「在野の書評家」というのは日本語としてもちょっと違和感があるが、しかし、ではこれ以外に上手い言い方があるのかといえば、ぼくにも思いつかない。このきわめて短い記事は、保坂和志と、「みんなは知らないだろうけど保坂が褒めてる奴」とが対談する、という情報を示すためのもので、そこで見出しでは「みんなは知らない...奴」を一言でどう描写するのかが問題となる。たんに「画家の古谷利裕さん」では充分ではないのは、この講演はあくまで「小説」を主題としたものなので、その対談相手が何故「画家」であるのかという点の説明がされないからだろう。だからといって、ただ「書評家(ライター)の古谷利裕さん」でも説明が足りない。まあ、別にそれでもいいのだが、それでは、ぼくと保坂さんの関係のはじまりを説明する、この「偽日記」の存在が消えてしまう。そこで苦肉の策として「在野の書評家」と。(あと、ぼくの本業があくまで「画家」であることへの配慮もあるのだろう。)
例えばぼく自身も、バイトをしていた時の職場とか、親戚の集まりなどでは、一般的に通りのよい「売れない画家」もしくは「画家志望の者」という物語の範囲内で言動を制御することになる。「日展とかに出してるの?」とか質問された時、いちいち、日本の現代美術の複雑な現状を詳しく説明した上で、自分の立ち位置を説明したりなどせず、「いや、ぼくはちょっと系統がちがうんですよ」くらいの言葉でお茶を濁す。「どんな絵を描いてるの、風景とか?」「いや、ちょっと抽象的な...」「ピカソみたいなわけわかんないやつか」「まあ、そんな感じですかね」「じゃあ、死んでから価値があがるってやつだな」「いやあ、生きてるうちのがいいですよ」正確ではないが、嘘はついていない。ただ、そのさじ加減をどうするのかは、常に難しい。通常の会話で、他人は、面倒な話につき合う程に人に関心をもっているわけではないが、かといってあまりに通り一遍な紋切り型で流し過ぎれば失礼になる。そのさじ加減は、場や相手によって調整されなければならない。(実際にぼくがそれを上手くやれているかどうかはまた別の話。)それが新聞という場で、その読者という相手だったら....。
新聞記事の言葉は、社会的な空間のなかで、一般的なコンセンサスにおける妥当性のもとに書かれる。しかもごく限定されたスペースで。(だからそれは常に正確ではないが、正確ではないことによって社会的に機能する。)そのようなことは知っていたが、知っているということと、そのようなものによって自分が「描写される」という経験はまた別だ。自分が社会的な目からざっくり描写された、ということは無名で非社会的な者にとっては新鮮なのだ。そうか、在野の書評家だったのか、自分は、と。自分の存在が、いかに社会的にわかりやすい位置をもたない、「自称芸能プロダクション社長」とかと同じくらいにうさん臭いものなのかということを、他者の言葉を通じて、別のアングルから「見る」ことができたわけだった。
(別にこれは自分を卑下しているのではないし、逆に自分の中途半端な位置(在野の書評家!)そのものに特別な意義を見出しているわけでもなく、ただ、偶然にテレビカメラの端っこに写ってしまった自分の姿を見て、ああ、こんななのか、自分は、と、ちょっと笑えた、というようなことだ。)
保坂和志講演会の詳細については、ここ、で。内容についてのちょっとした予告。先日、この対談の打ち合わせで保坂さんとお会いした時、そのうちの多くの時間が『インランド・エンパイア』の話になりました。なのでリンチの話が出ると思います。勿論、ちゃんと小説の話にもなるはずですが。