坂本龍一「きみについて」

坂本龍一のCMやTVの仕事を集めたベストアルバム(『CM/TV』)をなんとなく聴いていて、「きみについて」という糸井重里の詞がついている曲(ぼくにとってこの曲は坂本龍一という人のファーストインプレッションとなったような曲なのだが)の、詞の解釈をぼくは今までずっと間違っていたのかもしれない、と、ふと、思った。「お父さんが子供の時/お母さんを知らなかった/ぼくはまだきみを知らない」という単純な詞なのだが、ぼくはいままでこれを文字通り「ぼく」を主体とした詞だと思っていて、だからこの後つづく「きみの寝言/きみの寝息/きみの歯ぎしり/きみの寝相」の「きみ」とは、「ぼく」がまだ出会っていない、将来出会うであろうパートナーのことであり、「寝言」「寝息」「歯ぎしり」「寝相」というのは、まだ見ぬパートナーのイメージなのだと思っていた。しかし、「お父さんが子供の時/お母さんを知らなかった/ぼくはまだきみを知らない」という言葉の並びを改めて考えると、この言葉を発している主体はむしろ「お父さん」の方ではないか、と思えてきた。(「お父さん」は息子に向かって、自分のことを「お父さん」と呼ぶだろうし。)つまり、お父さんが、まだ生まれて間もない息子を目の前にしながら(傍らにいる「お母さん」の存在をも意識し、お母さんとの出会いや、出会う以前の生活などを想起しつつ)、息子(「ぼく」)の将来を思い、それを思うことで半ば息子と同化して、「ぼくはまだきみを知らない」という主体の転倒した言葉を発しているのではないか、ということだ。そう考えると、この後につづく「きみの寝言/きみの寝息/きみの歯ぎしり/きみの寝相」の「きみ」とは、生まれたばかりの(目の前にいる)赤ん坊である自分の息子(つまり、最初の部分の「ぼく」)の姿であるということになって、その方が後半部分の解釈としてはすっきりする。(「きみ」が赤ん坊、もしくは極めて幼い子供であるから、そのイメージが「寝言」「寝息」「歯ぎしり」「寝相」という形でイメージされている、と。まあ、自分の将来のパートナーの姿を「寝言」や「寝息」としてイメージするのも、ほのぼのとして良いとも思えるけど。)つまりこの詞は、父親が、目の前で生きて動いている自分の息子の存在によって感情を動かされ、その将来について想像し、想像する過程で自身の人生をも想起し、それを息子の人生と半ば同化し(それによって人称が混乱し)、この、同化(イメージの二重化)と人称の混乱(と言うか「未分化」)によって言語的イメージが「圧縮」され、その圧縮の効果が、父親が息子を前にした時の「感情」を喚起させる、という詞なのではないか。だとすると、この詞は一見単純に見えて、とても複雑で深みのある構造をもっていることになる。
ぼくがこの曲をはじめて聴いた時からもう二十年以上経っているのだが、今頃になってこのことに気付くというのは、何とも鈍いと言うしかないが、こういう時に、作品と時間の関係と言うか、作品と人生の関係というものについて、感じるものがあるのだった。