●六本木の文喫に千葉雅也・保坂和志の対談を見に行く。
●『デッドライン』(千葉雅也)のざっくりとした感想。文体があっさりしているのに、感覚的なものの濃度が濃いと思った。文体も描写も、さらっとしていながら、中身がみっしりつまっている感じ。記述の関心は割とさらさら移動していくが、移動の軌跡が単調ではなく、個々の感覚が粒だっていて、振り幅も広く、モンタージュの仕方も多様であるから、そのように感じられるのではないかと思う。
●全体に漂う、上品なゆるふわ感。2001年頃の日本は、今と比べればまだ随分余裕があったということなのか。それとも、東大(とは明記されていないが)の周辺は、今でも割とゆったりした感じなのだろうか。
(2001年、2002年を通過する話であるとはっきり書かれているにもかかわらず9・11にまったく触れていない---匂わすような細部もない、と思う---のは、おそらく意図的なのだろう。)
主人公は、大学院で現代思想の研究をしており、他に、友人の映画製作の手伝いなどもしている。バイトをしているわけでもないので時間に余裕があり、学生にしては立派すぎる部屋に住み、学生としては贅沢だと思われる食習慣をもち、車も所有しているし、さらに、新宿二丁目やハッテン場に躊躇なく出入りできるというくらいにお金の余裕がある。頭がいい上に、浮き世離れした生活が可能なくらいにお金持ち。主人公は明らかに、相当特権的な位置にいる人だといえる(この特権が最後には破られるものであるとしても)。
明らかに特権的な人であるが、その特権がことさら強調されるわけでもなく、かといって隠されるわけでもなく、それが当然であるかのように、嫌みもなく、あっさり示されるという上品さ。
●冒頭のハッテン場の場面での男たちの回遊するような歩行によって、小説のモチーフとなる運動が示され、この円環的な運動のモチーフは、作中で様々な形となって反復される。たとえば、東京の地理と時計のイメージが重ねられることで、空間的な移動と時間の経過とが重ね合わせられる場面(時計の針が一周するように、ただ行って、帰ってくるドライブ)や、ゲイである自分の欲望は、直線的に対象に向かうのではなく、欲望の対象から折り返すように自分に戻ってくるような性質をもつと主人公が語る部分など(円環的に運動と直線的な運動の対比)。
●知子は(紙で)指を切り、主人公は(歯で)口内を切る。
●主人公の視点が遠くにいる知子の視点に転移する二つの場面での「距離感」。これらの場面は、主人公による一人称の語りからふと切り離されて、そこだけぽかっと宙に浮いているようにあり、そして視点が移動する時、知子は一人でいる。通常、一人称によって語られる場合、登場人物は常に語り手との関係のなかで現れるが(つまり「ひとりぼっち」になれるのは語り手だけだが)、視点が移動する二つの場面で、知子は主人公との関係から離れて「一人」になり、そして場面もまた、主人公との関係の外にでる。この場面の距離感(飛び石のように他から切り離されてある感じ)が、大勢いる登場人物のなかで、知子という人物に独自の存在感を与えているように感じられた。
(知子は一方で主人公の分身のようであり、しかしもう一方で主人公からもっとも切り離されてもいる---語り手から独立して存在している---ようにもみえる。)
知子が「自分のことをあまり好きではない人が好きかも」というようなことを言い、主人公がそれに同意し、「それが一番エロい」と言う場面があるが、実はここで、知子と主人公の言っていることは一致していないように感じられた。知子が、自分を好きでない人こそを好きだと思う感覚は、「その方がエロい」というようなエロティックな感じとは異なるのではないか。それは、(主人公がノンケの男を欲望するといったような)欲望の形というよりも、知子という人の存在のあり方にかかわることのように感じられた。知子という人は、ありうる人間関係の外側に、どこかでぽつりと一人でいる、というようにして存在している人なのではないか。この場面に、知子と主人公が似ているけど違う、ということが的確に表されているように思う。
(主人公もまた、たとえば知子とKとの関係の外に一人だけで置かれているのだから、このことはもしかすると同じことの二つの側面---裏表---なのかもしれないのだが。重要なのは、知子と主人公の違いというより、「視点の転換がある」ということかもしれない。)
(この場面の最後に、主人公は「猫になる」。)
(対談では、視点の移動は映画なら普通にあることで、特別なことではないと語られていたが、ぼくは、視点の移動が知子においてのみ起こること、その時に知子が一人でいること、に、とても強く反応してしまったし、そのことは、知子という登場人物のあり方、そして、知子と主人公の関係のあり方において、必然的なことであるように感じられた。)
●引用。作中の徳永先生の荘子に関する講義でおもしろいとおもったところ。
《人間でも動物でもいいのです。他者と「近さ」の関係に入る。そのときに、わかる。いや逆に、他者のことがわかるというのは、「近さ」の関係の成立なのです。》
《「近さ」において共同的な事実が立ち上がるのであり、そのとき私は、私の外にある状態を主観の中にインプットするという形ではなく、近くにいる他者とワンセットであるような、新たな自己になるのです。》
《事実を共有すること。それは主観と客観の対立ではうまく捉えられません。》
《荘子は魚と、ある近さにおいてワンセットになる。》
《ある近さにおいて共有される事実を、私は「秘密」と呼びたいと思います。》
《真の秘密とは、個々人がうちに隠し持つものではありません。具体的に、ある近さにおいて共有される事実、これこそが真に秘密と呼ばれるべきものなのです。》
《「荘子は魚になっていた、ということでしょうか」
僕はおずおずと発言した。そのとき、安藤くんが僕の方に視線を向けたのがわかる。
「ええ、そう言えますね」
「逆に、魚の方も荘子になったわけですか?」
「まさしくそうです」
次に篠原さんが口を開いた。
「つまり「なる」ということが、主観と客観の手前なのでしょうか?」
徳永先生は頷いて、答える。
「まさしくそうです
ただし、自己と他者が「同じになる」のではありません。あくまで荘子は荘子、魚は魚なのであって、にもかかわらず、互いに相手に「なる」のです。》