ゲシュタルトの問題とフレームの問題は違っていて、前者が地と図の関係の問題であれば、後者は一と多の関係の問題なのではないか。「図であり多である」いわゆる現実の世界から、「地であり、多であるもの」と「図であり、一であるもの」という二方向の別の抽象化への線が伸びているのではないか。地と図との絡み合いのなかで複数の形象が複雑に関係し合っているという様相と、複数のフレームが、並立したり入れ子になったり、主従関係を変化させるよう抗争し合ったりしているという様相とでは、そこで働いている力の組成が異なるのではないか。ガタリを読みながらそのことに気付いた時に、とても腑に落ちるような感じがした(昨日の日記の一つ目の図を参照されたい)。
例えば、形象化について考えるならば、「地であり、多であるもの」の領域から「図であり、多であるもの」の領域へと下ってゆくことで形象は出現し、創発される。逆の流れは、形象の解体となる。しかし、フレーム化について考えるのならば、「図であり、多であるもの」の領域から「図であり、一であるもの」の領域へと移行することで行われ、フレームの創発が起こる。逆の流れは解体となる。であれば、いわゆる現実的な領域である「図であり、多であるもの」は、形象化においては創発の場であり、フレーム化においては解体の場であることになる。
つまり、形象化の軸においては、抽象化(超越化)は解体として表現され、フレーム化の軸においては、抽象化(超越化)は創発(統合)として表現される。であれば、現実的な物質的世界である「図であり、多であるもの」の領域は、形象的創発(統合)とフレーム的解体が混じり合うことで、二つの抽象性を結びつける媒介的な領域としてとても重要なものとなる。
変な言い方をすれば、「この世」は、二つ「あの世」を結び付けて交流させる場であるとも言える。