2021-04-12

細田守の新作『竜とそばかすの姫』がちょっとだけ気になってきている。主人公は17歳の女子高生で、彼女はリアルな世界では田舎に住む引っ込み思案な少女だが、ネットの世界では世界が注目する歌姫である、という設定をみると、完全に「日本のオリジナル劇場用アニメの呪い」にがんじからめに縛られてしまっているように感じられるし、「そばかすの少女」というキャラ像もまた、なんとも古くさいもののように感じられる。ただ、予告編として公開されている映像のビジュアルを観ると、これはもしかするともしかするのではないかという期待が湧いてくる。インターネットというものをどのように映像として表現するのかということについて、今までの諸作品を大きく更新するようなものが、もしかしたら観られるのではないか、と。

『竜とそばかすの姫』予告1【2021年7月公開】

https://www.youtube.com/watch?v=hM8T-6OvWpo

細田守とインターネットと言えば、2000年の『デジモンアドベンチャー ぼくらのウォーゲーム』と2009年の『サマーウォーズ』で、『サマーウォーズ』は「ぼくらのウォーゲーム」のリメイクだと言える。だけど、『サマーウォーズ』は改悪だとぼくは思う。『サマーウォーズ』の何が嫌かと言って、結局はすべてが、古くからの権力者の家系を継ぐ大家族内部の「ゴタゴタ」と「団結」と「コネ」に収束されてしまうところだ(対して、「ぼくらのウォーゲーム」にあるのは、顕在化されないところで生じる匿名の子供たちの連帯が世界を救う、という物語だろう)。世界を危機に陥れるのも(ゴタゴタ)、その危機を救うのも(団結とコネ)、どちらもこの家族に由来している家族内の出来事なのだ。主人公の男の子の特殊なスキルは、この旧家の権力にひたすら利用され搾取される。特に嫌なのが、大お婆さまみたいな人がもつ権力者へのコネが最後の決め手になるというところ。結局コネなの、と思ってシラケてしまう。なんでこんな嫌な物語を考えたのか、と。

(もしかすると大島渚の『儀式』に影響を受けたのかもしれないとも思う。だが、『儀式』には親族内に明確な立場の違いと権力闘争があり、権力者家族は一致団結などしないし、コネで解決ということもない。あるいは高橋洋の『狂気の海』でも、限られた狭い範囲の少人数での抗争が「世界の運命」に直結するのだが、ここにあるのは最もミニマルに縮減された諸権力間の抗争であって、絶対的な権力者集団による権力行使ではない。)

ただ「ぼくらのウォーゲーム」は確かによい作品だけど、この作品におけるインターネットの像は2000年前後くらいの楽観的で希望に満ちたもので、脅威としてイメージされているのは「Y2K」のような、システムそれ自体の暴走であって、現在問題となっているような人間的な側面(フェイクニュースや誹謗中傷の拡散など)については予感さえされていない。2000年の段階では、SNNというものを想像することさえできなかったし、ましてやその負の側面について考えることもできなかった。それに、ネットに接続している人の数や、その接続度合いも当時とは全然違っている(「ぼくらのウォーゲーム」の作中では、島根の田舎ではネットに繋げる環境を探すのが大変だったが、今では田舎でもみんなスマホを使っている)。

(それに、さすがに現在では、「顕在化されないところで生じる匿名の子供たちの連帯が世界を救う」という物語を素朴に信じることはできなくなっているだろう。ちょっと言い足りていないと思ったので追記。そのような希望を信じられなくなったというより、そのような希望を「インターネットの希望」として物語化することに説得力がなくなった、ということだろう。)

サマーウォーズ』の失敗を、もしかするとここで取り返してくれるかもしれない、本格的にアップデートされた2021年版「ぼくらのウォーゲーム」のすごいバージョンを観せてくれるのかもしれない、という期待が(少し)ある。