●「日経サイエンス」2011年12月号の「実在とは何か?」という特集にマルチバースについての記事か出ていることを知ったので読んでみたのだけど、それによるとドイッチュの言うような量子的な重ね合わせによる多宇宙論という考えはどうもかなり少数派みたいな感じだ。というかそもそも、エベレット-ドイッチュという流れの多宇宙論(多世界解釈)は、量子力学観測問題に対する一つの姿勢を徹底するところから出てきていて、宇宙物理学的な流れからくるものとははじめから立っている場所が違っているのだろう。
●この特集は、G.F.Rエリスという人の記事と、レオナルド・サスキンドという人へのインタビューからなっていて、前者が、多宇宙論のいろいろな流れを紹介しつつ、それに対して批判的であるのに対し、後者は、多宇宙論以外に、この宇宙を整合的に説明する原理はいまのところほかにはないだろうという立場で、きれいに補完関係になっている。
宇宙論が、現在までに宇宙についてわかっているいろいろな事柄を整合的によく説明するということについては両者で共通しているが、前者は、それが基本的に観測による検証が不可能であることと、《宇宙というたった1つの事象を説明するために、多数の、無限といってよいほどの観測不能な仮定をお》くことになってしまうことという点で、多宇宙論を《過去数世紀にわたって成功を収めてきた近代科学の根幹》を揺るがしかねないものだと批判する。
対して後者のインタビューでは、《物理学会の大部分は、この世界をユニークで数学的に可能な唯一の世界として説明しようという考え方をすでに捨てている。目下のところ、マルチバースが唯一の選択肢だ》、《(…)マルチバースに対する一貫性のある明確な反論は1つもない》、と言っている。まあ、前者は、反論しようにも、マルチバース論はあまりになんでもありなのでそもそも反論のしようがない(反証可能性が成立してない)じゃないか、という批判をしているのだけど。だからここで、「科学」とは何なのか、どうあるべきか、ということが問われてもいるのだと思った。
●サスキンドの次の発言がちょっとおもしろかった。
《科学的コンセンサスがどのように生まれるかについて、私は1974年に興味深い経験をした。当時、ハドロン(陽子や中性子など)に関する量子色力学(QCD)という未検証の理論が研究されていた。ある学会で私は聴衆にこうお願いした。「皆さん、QCDがとどのくらいの確率でハドロンに関する正しい理論であると皆さんが信じているか、私は知りたいと思います」。私がその場で意見を集計したところ、5%以上の確度で正しいと考えている人は誰もいなかった。
そこで「あなたは現在何を研究していますか」と尋ねたところ、答えはQCD、QCD、そしてQCD。みんな量子色力学を研究している。コンセンサスはできていたのだが、何らかの奇妙な理由で、誰もみな懐疑的な姿勢を示したがっていた。》
まあ、これは物理というより社会心理学的な事柄で、ここにはおそらくいろんな理由があって、それこそ空気を読んだ自己保身的な態度があったり、信じてないけどその研究によってポストが得やすいとかいう事情もあったりするのだろう。とはいえ、それらを外してごく素朴に考えるならば、人としての実感やリアリティと、科学者としての「こっちに何かありそうだ」というカンとの間には食い違いがあるということでもあるんじゃないかと思った。それは、意識が欲していることと無意識が欲していることは常に食い違っているということでもあると思う。
●この例が適当かどうかわからないけど、アインシュタインが死ぬまで量子力学に反対していたという有名な話があるけど、アインシュタインが考えた「こうだから量子力学はおかしいでしょ」という思考実験は、結果としてことごとく量子力学の正しさを証明するものとして機能することになった、という事実があるそうだ(代表的なものが「EPR論文」)。だからアインシュタインは、反対していた量子力学の発展においても高い貢献を(結果として)したことになるのだ、ということにもなる(例えば佐藤文隆アインシュタインの反乱と量子コンピュータ』などを参照)。意識の上では受け入れられなかったとしても、無意識のうちにそれを推進していた。ここには、奇妙な理性の狡知のようなものが働いているようにも思われる。
●これは別に(天才的な)科学者に限らず誰にでもあることで、意識としてしていることと、実際に効果としてしていることとは、常に食い違っているのだし、食い違っていていいのだと思う。効果はもちろん結果となって行為主体へとフィードバックされるのだが、そのフィードバックもまた、意識をすり抜けたりする。それでもそれは、行為主体に何かしら「空気」のような影響を与える。その「空気」を、意識とは別のところで(反省的に)とらえ、操作するための何かしらの技法が、行為するものには必要とされる(だから、その技法もまた意識されないのだが)。行為する者は意識とは別の次元で様々な判断と反省を行っている。アインシュタイン量子論への反発が、たんなる抵抗ではなく、反発を通じた貢献になっているという時、アインシュタインの天才の内で(「理性の狡知」ではなく)このような技法が作動していたと考えることはできないだろうか。アインシュタインの天才が、アインシュタインの意識(抵抗)をすり抜けて、外へ出て形となるための非意識的技法があった、とか。
●で、だとすると、また、その意識されない「技法」を分析する技法も必要となるのだが、これもまた意識されないとしたら、それは「秘技」のようなものになってしまうのだけど。
空気への介入を非意識的にオペレートする技法と、その技法をまた、非意識的に反省・分析する秘技とか…。
●半年ぶりに髪を切ったら中山秀行みたいな髪型になった。